流鏑馬

家斉の厄払いの為に行われた。


11代家斉の頃には、吹上にも長い馬場や弓場も完成されていたようで

ここで武芸を披露しています。


 住吉の浜

太田南畝によると、中央の広い広場が芝生になっていて、ここを

「吹上御庭広芝)と呼んでいる。

芝には、住吉の浜と常滑の松を植樹し、縁に山吹の流れには高砂の松

園池の岸には天橋立の松、北野神社、須磨、今宮、和歌浦などの

松が植えられていたという。


 吹上競馬場

これは尾張藩主・慶勝が幕末撮影した写真

お城では、吹上で番方騎射上覧がある。

将軍の前で弓の腕前を披露するのである。

吹上御所にて、狭物と云われる的を射る。

優秀者には、白銀等が贈られる。

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御庭番の川村家の日記では、山里御庭で初めて御弓場上覧。

銀1枚頂戴。とある。



大岡ませ子の大奥・御台所が吹上に桜の花見をする時の

様子です。

外出の時は傘を召さない方が多うございました。

吹上へ御出での時は、紺の無地の傘で御紋も無ければ、

模様も無い。

御供の者は、炎天の時でも傘は有りません。


花見の時でも、幔幕を使いますが、御紋入りのは有りません。

無紋か或いは輪だけの、今の皇室が使っているものです。

花見は吹上ではなく、五十三間馬場で行われたようです。

弓の稽古や馬の稽古に使われた所です。


吹上には幕を張るようなところは有りませんが五十三間の

馬場にはあります。

例の白黒の幕を張ります。

この白黒の段々幕と輪ばかりの紋は今でも宮内庁で使っています。

53間で御紋の付いた幕は見たことありません。


 滝見茶屋

吹上では、別々に御出でになって、上様(家茂)は滝の茶屋、

宮様(和宮)、は諏訪の茶屋、旦那様(天璋院)はお花壇に入り

一緒に花見をします。

模擬店などありません。

料理は御膳所から持ってきます。

五十三間は馬の見所ですから建物は有りません。御同席になります。

  諏訪の茶屋

将軍家のお酌は表向きはありませんが、ここ吹上か五十三間に来ると

御手ずからの酌でいただきます。

御側の者は御側で、そうでないものは御縁の下で頂く。

嫌いな者には、少ししか注がないので大丈夫です。

ここでも、御目見えか、そうでないかで選別されるのです。

明治期になっても、これは生きていました。


五十三間では、桜と菊と年に二度あります。

花見の時は決まって味噌の付いた御団子が出ました

  西の丸・吹上門
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弘化元年(1844)5月10日の本丸火災には、

家慶らは滝見茶屋に避難している。

この火災の様子を旗本の井関夫人が詳細に述べている。

「続徳川実記」では、「十日雨降る、寅の下刻ばかり平川広敷より

火出でて、本城悉く焼失せて、卯の下刻ばかりに熄む

と、簡単であるが、隆子は自宅から見える火を前にしての

臨場感漂う描写が素晴らしい。

天保十五年五月十日

雨が昨夜から降り出し、一日止まず。今朝暁の頃、

火災の知らせがあったが雨の降る音が高く誰も驚かなかった。

その内騒ぎが大きくなり、外を見ると、

南の方に大変な炎が燃え上がり雨雲を焼き焦がすような状態であった。

昨夜は2人そろって宿直である。2人の身の上を案じて、動転してしまい、

立っているのがやっとという状態である。」


非常に率直な子供を思う気持ちを書いていますね。


その内、家の者が城の様子を見て来て云うには、我が殿(親経)に

逢う事が出来た。

城の皆さんは吹上に移り大丈夫との事で、

無事を知って少しはほっとした。


昼過ぎに、まず親賢が、続いて親経が帰宅。

雨に濡れ、泥まみれの侘しい様子であった。

何はともあれ、無事を感謝して、神棚に大神酒を供えた。


松の殿の様子を聞こうと思ったが、大奥の事故情報が

制限されているので聞くことはしなかった。

松の殿とは、家斉の正室の後の広大院です。

井関家の主人は用人ですので、密接な関係が有ります。


後になって親経の話では、夜中に女の騒ぐ声で目を覚まして見ると、

既に、向かいの建物は激しく燃えていた。

部下を呼び集め奥の方に走った。

松の殿の寝所に行こうとしたが、普段行かない場所であるため判らず、

立ち騒ぎ女房達は怯え恐れて誰に聞いても返事すらできない。


漸く顔見知りの女房を掴まえ松の殿様の御座所まで駆けつけ、

普段用意させてある御乗物を呼び寄せて、女房達に命令し、

松の殿を乗せて急いで三の御口からお出し申し上げた。


テレビでの放送によると、和宮も駕籠で避難した様子がありました。

しかも、イラストで描いてある。

自分が駕籠に乗ってお女中が担いでいるが、何分、普段担いだことが

無い人ですから、重い重いと言葉まで入っているユーモアたっぷりの

もので、性格そのものは明るいのでしょうね。




  左中隅が広大院の寝所です。

右下から助けに行ったわけです。

勿論、初めて中に入ったでしょう。
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大奥の女房たちも大半がしどけない姿で逃げたという。

御留守居の石河美濃は宿直であったが姿を見せず、

松の殿には親経が一人付き添って吹上の御座所へ避難させたという。

少し経った頃、将軍家慶も避難してきて、男女入り乱れて騒ぐ光景を

見て整然と行動するように度々言葉を掛けられた。

この事を聞いて、隆子は家慶の女好きであること心配するのです。


先年の西の丸炎上の時は、町火消を入れたが

結果的に盗難が多かったビックリマークので今回は自然鎮火を待った。

火事場泥棒ですね。



江戸は火災が非常に多かったが、火事場泥棒も多かったようです。

火事だと聞くと直ぐ集まってきて、或いは火が出てなくとも、

自分で火を付けて大きくしたりする悪質な者もいて、

幕府は再三の触れや、或いは「御定書」でも記し取り締まったが

絶えることは無かったようです。


更に悪質なのは、恨みを買っている家や普段から快く思われてない家を

出火したと称して火を付け、敢て家を壊してしまうのです。

当時は、破壊消防ですから、火の先にある家は、延焼を防ぐために

毀してしまうのですが、便乗するのです。


そして、鎮火後が又問題で、お手伝い、或いは後片付けと称して、

実は、出火した家から振舞や料理などを充てにして集まってくる。

これも取り締まりましたが、やはり、人の不幸は蜜の味で

止むことは無く御触れを出しても効き目は無かったという。


大奥の習慣としては、「火事だ!火事だ!」と騒ぐことは

禁止されていたので、今回もただ騒ぐのみであったことが

被害を大きくしたという。


又、門が閉め切りになっていて誰も明けない。

そこをこじ開けて逃げた門は、良かったが、開けられなかった門は、

女房達が折り重なって死んでいたという。


犠牲者は多数で、主な方では、松の殿の上臈の花町、

上様(家慶)の小上臈の於伊与の方、御年寄・浪浦などだという。

折り重なって亡くなっていたという。


昔は、掛矢などが門の脇に置いてあり、いざという時は、

それを使って門は毀したものだが、今はそれも置いてない。」

と、述懐している。



江戸城火災の火災の原因としては、松の殿・年寄梅谷と

楽宮の上臈姉小路との間で責任のなすり合いが有った。

結局、梅谷の下女の失火という事であったが、はっきりとはされてない。

尚、これ以降、天麩羅は禁止されたという。

 天麩羅を食う女 えび天


又、松平定信も宝暦12年2月、5歳の時、田安邸の火災の為に

乳母の腹に帯で括りつけた格好で抱きしめられるようにして

吹上に避難している。


滝見の茶屋付近は、ながれや園地のある庭園になっていたので

火を防いだのでしょう。

そういう意味では、御三家を移転させて吹上を造営したのは効果が有った。

 滝見茶屋

尾張藩主・慶勝撮影

幕末、江戸城開城の後、尾張藩が江戸城を管理したので

それで写真が有るのでしょう。

吹上の花を枯らさないように水をやっていたのです。


又、家斉の頃に旗本が本丸の庭園の見学をしている。

将軍が居住している中奥を通り、黒書院を経て御座の間。御休息の間

寝室を見たのちに中奥の庭園に下りている。

園地には、杜若が咲いていたという。


この頃の事でしょう。

家斉が「近習の者して小座敷の庭に築山を作らしめ、盆池を設け

魚を放ち草木をも心有様に)と命じたところ、側御用人として

権勢を振っていた松平信明が「庭の事をするのではなく、天下の事を

納めるのが将軍の仕事だと諫言した。


未だ将軍成り立ての10代の将軍ですから、口応えは出来なかった

事でしょう。

家斉は、植木が好きでしたね。

御庭番の川村は度々お供して植木買に行きました。

吹上御苑



家斉は、植木が好きであったようで、しばしば染井や千駄ヶ谷に

出かけては植木などを買ってきた。

植木屋もそれを充てにして高価な物を並べて売ろうとし、

それをやらせまいとして、先駆けの武士は、上限は3両で、

当日並べる商品も確認しました。

敵もさる者で、家斉が来る頃には、高い値段に変えていたという。


将軍に成る前の13代家定も買い物が好きでした。

天保15年(1844)3月、

今の池袋の近くの雑司ケ谷に鷹狩りに行きました。


狩りの帰りに雑司ケ谷にある有名な鬼子母神に寄ったのです。

そこで買い物をしました。

名物の川口屋の飴を50袋、風車37本、他に植木屋に入り

鉢物の植木、変った鯉を十数匹購入している。

一番高かったのは2両でした。

結局、この日の買い物金額は17両3分、今のお金で1千万円以上。



好きといえば寛政の改革を主導した8代吉宗の孫の松平定信、

意外といえば意外ですが、非常に好きでした。

隠居後は、名を「楽翁」として築地にあった下屋敷で花鳥風月を友とする

悠々三昧の隠遁生活を送りました。

 浴恩園

現代の築地魚市場にありました。


左を春風の池、右を秋風の池と名付け、それぞれ季節の花を植えて

池の水は潮入りで、海水を左の秋風の池の左隅から入れて

江戸時代の池の作りである回遊式にして風流を楽しみました。


改革は上手くいかず、後には「白川の清き流れに魚住まず

濁れる田沼今は恋しき」と揶揄されたが、隠居後は思い通りに

行ったようです。


政治的な事よりも文化的な面で目につきますね。

例えば、白河の関もそうですね。

自領であった白河の関を確定させたこともあるし、文化人であったのでしょう