愛するとき、動機はどこになければならないのでしょうか。

 宗教とは元の教えです。神様の元の教えは、人類を教育し、人類を愛そうというものです。それ以外にはありません。ですから、真の父母は、子女に対して、世界が喜び、神様が喜ぶことを教えてあげます。人倫では、父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しなさいと教えます。

 皆さんは、誰のために父母を愛さなければならないのかを考えてみましたか。誰のために夫婦が愛し合わなければならないのか、誰のために子女を愛さなければならないのかを考えてみましたか。愛することに責任を取ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限の愛を語られました。最後に残るものは愛だとおっしゃいました。その愛は神様の愛です。皆さんは、慕うその目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。誰のために愛しますか。神様のためです。神様のために愛さなければなりません。

 自分のために愛する者は、どこへ行くのか死んでみてください。皆さんが子女を生んで乳を飲ませ、「かわいい」と言いますが、誰のためにかわいがるのですか。それは、天と地の身代わりとしてかわいがらなければなりません。この国、この世界のために、神様のためにかわいがらなければならないのです。

 神様の愛に従った天倫の運勢は、世界を越え、天地を包容するために動いています。それなのに、その因縁を通じて生まれた息子、娘を自分のために愛するならば、それは許されないというのです。子女を抱いて乳を飲ませるおばさんたち、天と地を身代わりして神様の愛する息子、娘を抱くという、切実な心情で自分の息子、娘を抱かなければなりません。

 皆さん、恵みを受けることを願いますか。永生することを願いますか。そのようにするためには、公的な人にならなければなりません。子女を教育するとき、自分の息子、娘としてのみ愛してはいけないというのです。世界の人々のための祭物的な息子、娘として愛する父母にならなければなりません。そして、子女を胸に抱いて乳を飲ませる時には、この地球上の人類を代表した立場で、人類を代表した赤ちゃんに乳を上げるという心で与えなければなりません。

 
                 (天聖経 P570より)

 
 神様を意識した生活をし、意識の中心には常に神様がいるのが理想です。
 自分を中心として愛し、喜び、楽しむのではなく、神様を中心として愛し、喜び、楽しむのが本来の姿だといえるのではないでしょうか。





          
 



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