私は、自宅内部を確認・整理しながら、その後郵便局・銀行・保険会社を回り「お金周りの」確認に行きました。・・・同時に、葬儀屋に電話して火葬と遺骨安置の準備を行います。
私自身、時間が限られているので、「手際よく」動きます。足(移動手段)がないので、大家さんに頼んで私有車を動かして貰います。

小さな町と言えど、その確認にはとても時間がかかります。貯金残高などは、はっきり教えない所が大部分ですから、(金融機関の)住所と電話番号だけは、しっかり確認しメモします。
最初の夜は、大家さんの別の貸家の一室に宿泊しましたが、話し相手もなく(妙に)心細さだけは強く感じたことを覚えています。

次の日、遺体を荼毘に付すため現地の火葬場に行きます。その前に、葬儀屋さんに手はずを整えてくれていたので、全て円滑に流れが進みます。
荼毘を見送るのは、私と大家さんと葬儀屋さんだけという、ある意味(とても)寂しい旅立ちとなりました。まぁ、「その人は、そういう生き方をしてきたのだから仕方がない」と言えばそれまでですが、実の息子が立ち会ってくれただけでも(本人にすれば)「救いだった」のではないかと振り返ります。

私自身、まさか知らない土地で実母の最後を見送るようになるとは、予想だにしない展開でしたが、血を分けた息子として「最初にして最後の親孝行」が出来たかなと、しみじみ思い起こします。

世の中には親戚や身寄りもなく、あるいは数少ない親類とも縁が切れて、無縁仏になる人が沢山いる訳で、私が経験したように、最小限の人間で(遺体を)荼毘に付し、この世界の最後を見送るというケースも、今では珍しくないはずです。
葬儀に拘らなければ、「どの様なスタイルでも行える」ということを、私自身身(み)を以て経験したのでした。

人間、欲を言ったら切りがありません。見栄に拘ったら、スムーズに進むものも滞ります。何も無ければ、何も無いように振る舞うのが一番楽に進める道なのです。
簡潔明瞭な葬儀だから、お金も(あまり)かかりません。一番足を引っ張るのは、生きている人間の情や建前や見栄です。それを、表にださなければ全てスムーズに進むように出来ています。

以上、私自身が経験した「孤独死」を書いてきましたが、皆様、如何感じられたでしょうか?本当に悲惨だという意見や、そういう死に方があるんだという意見など、感想は様々だと思います。
私が最後に言いたいのは、人それぞれ希望とか言いたいことなど山のようにあっても、死んでしまえば「もはや、口に出せない」=発言は出来ないという事実です。

と言うことは、生きている元気なうちに出来る手立ては講じておく、というのが賢明な生き方と言えるということです。
家族・親類・親戚・縁者が沢山いる者は幸せです。常日頃から、そのことに感謝して過ごしているなら、寂しい最後を迎えなくても良いかも知れません。
・・・しかし、最後は「その人の因縁次第」なのです。
(終わり)