お盆前で込み合っている中で隣の打席で高校球児父子が打っていた。
ほとんどのお父さん達と同じで、そのお父さんも自分の息子に呼び捨てではなくて、“○○君”と言っていて、息子が打ちやすいようにボールの高さなどをこまめに調整などしていて、優しさがあふれていた。
私のオヤジは全てがオヤジの言うがままに従わねばならなくて、もちろん名前を呼ぶときも“いちろうっ”とぶっきらぼうに呼び捨てで、ちょっと言う事を聞かなかったり極まり事を守らないと死ぬのじゃないかと思うほどに蹴られていた。
キックボクシングもサッカーも無い時代だったが、もし存在していたらいい選手だったと思うほどに威力があった。
まず最初の蹴りで倒れると間髪を入れずに頭を蹴ってくるのだが、一度は玄関の土間まで蹴り落とされたこともあり、もし喧嘩をしたとしても一生勝てないと思わされていた。
19歳の時自動車技術のお師匠さんの内弟子となったのだが、この師匠が根っからの江戸っ子でお人好しなんだが、教育方針はゲンコツやハンマーの柄で殴りまくって教えを叩き込むというやり方だった。
何度も逃げて帰ろうと思うほどのひどさだったが、逃げかえるとオヤジに“男のくせになんというザマだっ”と、蹴り殺されるのが怖くて、三年間辛抱した。
お陰で腕前が超一流になった為に、その後の六十余年の自動車人生は天国状態のままで人並み外れてありがたい人生となった。
そんな私が62歳の時糖尿病にかかり、何か運動して汗を流さねばならなくなったことからバッティングセンターでボールを打って汗を流すことにした。
ところが50球打ったのにただの一球も当たらず、マメが破れて手が血だらけになった為に、一度で懲りて行くのをやめた。
数日後オヤジを病院に送った際に、ロビーでオヤジの治療が終わるのを待っていたら、“バッティングセンターに行くのじゃないのか”と言ったので、“全然打てないし、やはり俺は運動はダメだ”と言ったら、“男が一度はじめた事をたった一回でやめるとは何事だっ”と、周りには人が沢山いるのに大声で怒った。
そして“コレで行ってこいっ”と千円札を突き付けて来た。
95歳になってもオヤジの怒りに逆らえないので仕方なくバッティングセンターに行った。
“松坂140km/h”という打席があいていたので入って、また空振りのオンパレードだったが、たまたまマグレで当たったのが、なんとホームランの的に当たったのだ。
スタッフの誰かが“140km/hでの第一号ホームランを62歳のおじいちゃんが打った”とテレビ局に伝えたとのことで、すぐに“探偵ナイトスクープ”という番組が収録に来られた。
その後は多くの人達がご存じのように“鹿児島のイチロー”として若者達の世界に、体は小さいのにデカイ面して長い年月のさばり続けることが出来ているわけだ。
そしてバッティングセンター人生25年目の87歳の現在、新たな挑戦として“2kgもの超々重量バット”を振り回して、既に一流どころを力任せに潰しにかかるという離れ業をやれていて、内心ニンマリ状態なのだ。
一生かけた自動車人生も、その後の予想をはるかに超えた長いバッティングセンター人生も、づーっと快調快適な行け行けドンドンのありがたい人生になっている。
すべては、“おっかなくて厳しかったオヤジ”のお陰なのだ。