終活ではないが自分史として、思い出をしたためておくことにします。
日本の山にのめり込んでいた頃に、ヨーロッパアルプスに登りたい気持ちがたかぶり、会社を辞めてヨーロッパを目指しました。21歳でした。
まずはイギリスのファームキャンプで働きながら英語を学び、その後春になったらモンブランに登る計画だった。
成田空港が開港2年目の1979年9月3日成田空港を出発
当時の1年間有効のPIA(パキスタン航空)チケット。1000ドルくらいだった記憶です。
当時1ドルは360円の固定から、変動相場になって230円くらいだったか
成田から北京、ラーワルピンディ、イスタンブール、アムステルダムを経由してどんどんのヒースロー空港へ。
成田、北京、Rawalpindi、İstanbul、Amsterdam、LondonのHeathrow Airport
北京に近づくと天気は晴天、窓からは黄河だか揚子江かなんだかわからないが、黄色い大きな川が見える。
北京の国際空港はすべてが漢字で書いてあり、読めないがなんとなく意味はわかる。
飛行機はターミナルから、400m程離れて止まり、乗客はタラップを降り、歩いてターミナルまで行かなければならない。
飛行場を自転車でのんびりと行き来している。
旅客の歩いている目の前を、飛行機が横切って滑走路へ向かっていく。
まさか飛行機にひかれて死んだなんて、聞いたこともないので、走ってターミナルへ向かった。
2階からは人民服を着た人々がじっと俺たちを見つめている。
ターミナルのトイレは日本の田舎の駅のトイレのようで、木でできていて、便器はない。そしてハエがうなって飛んでいる。
2時間ほどの待ち時間をすることもなく、空港内をうろうろしていると、いつのまにかターミナルの外の大通りへでてしまった。
戻れないかとあわてると、何のことなく、飛行場の内外へ自由に出入りできた。
北京を飛び立ってからは長く、ラーワルピンディ、イスタンブール、アムステルダムを経由し、やっとのことロンドンへ着いた。
イギリスの入国審査は厳しいと聞いていたが、その通りに高慢な態度の審査員に問いつめられてしまった。
「目的は」「観光」
「何日間」「2週間」
と、そこまでは日本を出るときに聞いてた通りだったが、その後がしつこく、帰りの航空券やロンドンでのホテル、所持金その他いろいろと聞かれた結果、たったの2カ月間のビザしかもらえなかった。
入国早々、イギリスで春までの6カ月間滞在の計画は壊れてしまった。
ヒースロー空港からは電車でアールズコート駅へ行き、それから宿のニンバスクラブへ
この宿は日本でワーキングキャンプを申し込んだヤックが手配してくれた。
日本人旅行者の溜まり場であり、ドミトリー式。
このニンバスクラブでファームキャンプへ行くまでに3泊するので、その間はロンドンの市内観光。
1979年9月5日~7日 ロンドン観光
昨夜はニンバスクラブの一室に4人が寝た。ニュージーランド女性一人に日本人女性一人、そして成田からずっと一緒の本田さん。
さっそく街へ出てみることにした。
本田さんを起こし、二人してアールズコートからチューブと呼ばれる地下鉄に40pの切符を買って乗り、ロンドンの中心地ピカデリーサーカスへ向かった。
Earl's CourtからtubeでPiccadilly Circus
ピカデリーサーカスで写真を撮り、リージェント通りを下り、トラファルガー広場へ出て、ホースガードパレードを抜けると、海軍省、ウェストミンスターがあった。
そして引き返してパキスタン航空の事務所へ。
チケットのことを話に行ったのだが言葉が解らず四苦八苦してしまった。
事は成田出発直前になってから、航空券に印刷された帰りのルートが違っていたので、成田のPIAのオフィスへ掛け合うと、「ロンドンで話をしてくれ」とのことだった。
さっそくやって来たものの、二人とも英語が全くダメときていた。
しかしどうにかなるもので二人で必死になって話すと通じたらしく、London→Paris→Cairo→Rawalpindi→東京をLondon→Paris→Rome→Karachi→Bangkok→Manila→東京に変更してくれた。
パキスタン航空のオフィスを出ると二人ともぐったりと疲れてしまい、近くの公園にひっくりかえった。
それにしてもロンドンはいたるところに公園があり、公園は広く、公園というより山の中へ入ったような気分になる。
みんな思い思いに芝生の上に寝ころんだり、親子でサッカーをしたりしている。
公園にいる雀や鴨も人間に良くなれていて、おびえる様子もなく、手のひらに乗りパンを食べている。
しかし、注意しなければならないことは芝生に座るときに犬の糞をふんずけないように、下を良く見ないといけない。
Regent Stを下り、Trafalga Squareへ出て、Horse Guard Paradeを抜けると、Admiralty Building、Westminster Abbeyがあった。
東京銀行でトラベラーズチェックの両替(昔はカードがなかったような?海外旅行には現金は危ないからと、トラベラーズチェックを持っていくのがあたりまえだった。いまでもあるのかな?)
1979年9月6日
ヤックのニンバスクラブはどうも居心地が悪い。
女性と同室のためか、喜ぶべき事なのだが、いつも部屋にいるときは気を使わなければいけないし、さらに日本人の泊まり客が多すぎる。
それもみな長いことロンドンにいるような人達ばかりで、話が合わず、気まずい思いになってしまう。
本田さんに話をしてみると、ここに留まるとのこと。
そんなわけで成田から一緒だった本田さんとも別れ、一人でユースに泊まることにした。
本田さんとはフライデーブリッジで会う約束をしてニンバスクラブを後にした。
公園の中にあるジョージユースホステルへ行くと満員だと断られた。
次のユースへ行っても満員。
重いザックをかついで、とぼとぼ泊まり場所を探し歩くのは惨めな姿だ。気候は暖かく少し歩くと汗が出る。
こんな事ならニンバスクラブに泊まっていれば良かったと思うものの、帰るわけにもいかず安ホテルを探し求め、何件かホテルのドアをノックしたが、やはり安いところは満員で、空いているのは値段の高いホテルばかりだった。
ロンドンにはBreakfast and BetのB&Bと呼ばれる安ホテルがあるのだが、やはりどこへ行っても満員だった。
夕方になってやっとたどり着いたサセックスガーデンにあるレッドコートホテルは、予定よりちょっと値段が高かったが、感じのいいおばちゃんだったので泊まることにした。
入り口でノートに名前と国籍、住所、年齢を書くと、ちょっと太めのおばちゃんがひーひーいいながら4階の部屋まで案内してくれた。
部屋は8畳ほどの広さにシングルベットが二つ、どちらも薄ピンク色の綺麗なシーツで覆われていて、さっぱりとした感じのいい部屋だ。
窓を開けると焦げ茶色した煉瓦の屋根が窓の形に広がっていて、やけに煙突が目に付く。
日本はテレビのアンテナと電柱が目に付くけど、やはり此処は外国、どこまでも日本とは違っている。
この3日間シャワーも浴びてない(ニンバスクラブは夜になると冷たい水で、とてもじゃないが入れなかった。)のでさっそく風呂にはいることにした。
一度廊下に出て、共同浴室のドアを開けると、床はカーペットがひいてあって、その上によく映画で見る足のついた長い白い浴槽。
浴槽の外で体を洗うわけにはいかない。しかもシャワーも付いていない。
あるのはお湯と水の蛇口だけ。いったい体をどのように洗ってどのように暖まったらいいのか考え、まず、お湯と水の蛇口をいっぱいに開き、湯船につかることにした。
けっこう長い時間がかかって肩までつかれるようになった。
映画でよく見る泡の風呂に入るかなと思い、石鹸を浴槽の中にいれ、一生懸命泡を立てようとしたが、ただ白く濁るだけ。
しばらくばしゃばしゃとやってたが、そのうちお湯もぬるくなってきて、そろそろ出ようと思ったが、はたと考えると、このまま体を拭いて出るのもなんとなく石鹸のぬるぬるしたのと、日本の石鹸とは違った余り良くない変な臭いが体に残るのではないかと思い、栓を抜き、新しいお湯を入れると、なんと時間のかかること。
お湯が湯船に貯まる前に風邪をひいてしまいそうだ。
これがイギリスの普通の家庭の風呂なのだろうか、なんと不経済、不合理、シャワーがあれば体を洗ってからシャワーで流し、それから浴槽にお湯を貼り、体を温められたのに。
だからロンドンは石炭ばかり焚いて、煙で家々の屋根や壁が黒ずんでいるのか?
ロンドンでの生活は一に水が欲しい。二に野菜が食べたい、三にアイスコーヒーなど冷たい、炭酸飲料でないものが欲しい。
イギリスに来て、いまだコップに入った水を、一度も見ていない。喫茶店というものが無く、レストランに入っても、お絞りも水もでないので、水の有り難さをしみじみと感じさせられる。
14 Sussex Gardens Hyde Park London W2をグーグルアースで調べたがわからなかった。たぶんここのどこか
1979年9月8日
レッドコートホテルの宿泊者は英語を話すフランス人夫妻と、アメリカ人の若い男、そしてイギリス人の若い女性、そして俺を入れての5人。
朝食は宿泊者と宿のおばちゃんと娘とで、大きなテーブルを囲んで食べる。
みんな申し合わせたように食堂になっている地下の部屋に集まってくると、初対面だと言うのに「グッドモーニング」と言う。日本だと同じホテルに泊まって、廊下ですれ違ったりしても、見知らぬ人には何も言わずに通り過ごしたり、同じ食事のテーブルを囲んでも知らぬ振りをしてしまうが、この点はヨーロッパ人に教えられてしまい、自分の心の狭さに恥ずかしくなってしまう。
レッドコートホテルの朝食は、よく焼いたトーストにバターとイチゴジャム、そしてベーコンエッグとミルクティー。
日本に居る時は紅茶にミルクを入れる奴の味覚感覚を疑っていたので、出されたミルクティーをおそるおそる飲んでみると、それが実にうまい。
別にイギリスの国民飲料だからとほめるわけではないのだが、今まではミルクを入れたときの濁ったような色が嫌いで飲まずにいたが、この一口でミルクティーにたいする考えは変わった。
しかし隣に座ったフランス人のおばちゃんはひそひそ声の英語で、俺に言う。
「まずいわねえ、イギリスの飲み物はまずく、せっかくの朝食もおいしくいただけないわ」「そうですか」
「ええそうよ、あなたは日本人」「ええ、そうですが」
「フランスに来たことある」「いやまだです」
「フランスのコーヒーはおいしいのよ、朝食の時のコーヒーは特においしいのよ、それに比べこの紅茶のまずさ、朝から本当に食欲がなくなってしまうわ」
と言うので、やはりフランス人は味覚にうるさいのかと思っていると、フランスのおばちゃんは愛想良く、宿の娘に旨いからとおかわりを催促していた。
朝食後レッドコートホテルのおばちゃんにバイバイして、King’s Cross(ハリーポッターに出てくる駅)からペプシコーラを買ってMarch行きの電車へ乗り込むと、日本女性らしき二人ずれがいた。
この2日間全く日本語を話していなかったので、なんとなく話したい気分でさっそく声をかけてみたところ、なんと日本語が通じない。
彼女たちはチャイニーズでケンブリッジの学生であった。
電車に乗るにも大変で、切符を買うにも時刻表を見るのにもすべて苦労する。
言葉の大切さをつくづく感じさせられてしまう。
彼女たちとの会話も俺の英語力ではすぐに間が持たなくなってしまう。
仕方なく窓の外を見ていると電車はキングスクロスの駅から何番目かの駅に停車するところ。
驚いたことに、ベンチに座っているのはニンバスクラブで別れた本田さんと、ニンバスクラブに泊まってたちょっと太めの女の子。
別れて2日しか経ってないと言うのに、まして彼と会ってからもまだ5日目だというのに、ものすごくなつかしい気持ちになり、あわてて窓を開けて手を振ると彼らも気づいたらしく、ザックを背負って走ってやってきた。
本田さんは電車を間違えたのでここで降りたとのこと。
本田さんは25歳、彼女は22歳。やはり本田と言う。
3人で目指すマーチ駅に着くと、ザックを背負った人が7、8人改札口を抜け出て、みんなフライデーブリッジファームキャンプへ行くような感じでバスを待っている。
しばらく駅前で待っていると、ドアの外れているタウンエースのような車がやってきた。
ぎゅうずめに乗り込み、畑の中のカーブの多い細い道を時速60マイルもの、油断していると振り落とされてしまいそうな猛スピードで飛ばしていく。
運転を代ろうかと言いたくなる。
これからしばらく寝泊まりすることになるフライデーブリッジは辺り一面畑、畑の中の一軒家。
ファームキャンプとはカタログによると世界中から集まった若者達が、農家の仕事を手伝い、国際交流をはかる。などとかっこいいことが書いてあるが早い話、日本の研修生と一緒。
受け付けを済ますと、毛布とシーツを渡され昔軍隊が使っていたという宿舎に連れて行かれた。
宿舎は男と女は別棟になっていて合計10棟ほどある。
各棟にベットが20床ほどあり、トイレやシャワー、食堂は別棟になっている。
部屋といってもコンクリートの床にベットを並べただけの部屋で、日本人が一人いた。
他はイギリス人、エジプト人、スペイン人、ポルトガル人、etc。
日本人はイクシマさん30歳、勿論独身、造船関係の仕事をしていたが辞めて、ケンブリッジの大学にしばらく通い、今は此処にいるとのこと。
将来は海洋開発の仕事をやりたいという学者風の若いおじさんで、みんなから(他にも日本人3人)おとうさんと呼ばれている。
さっそく毛布とシーツを広げてベットメイクをしたが、毛布は日本のぼろ船の2等で貸してくれるような灰色で染みつきで、部屋を見ても毛布を見てもこの先なんとなくらく感じられてしまう。
今日、我々3人が来たので合計日本人は6名、楽しい人ばかりだが一人一風変わった人がいる。彼は毎朝剣道の竹刀で素振りをし、誰から話しかけられても口を利かないらしい。
彼はデインジャー松本と外人から呼ばれている、このキャンプの中でも有名人らしい。
つづく②⇓












