結局一回しか観にいかなかった……

予定が立て込んでいたのと、いろいろ自分勝手なことばかりしてきたんで
主婦の身としてはそうそう我儘も言えないとかいろいろがあって

というか、自分の中で、大阪名古屋の予定を東京の日取りと勘違いしてて
さあ後半戦行こうかと思ったら関西に移動していたという。
(ちゃんとせんかっ!)

返す返すも、たった一度の回を、前から五列目という良席で見れらことは大きかったと思うのです。
Mさん、本当にありがとうございました。

で、千秋楽も済んだことだしネタバレ気にせずの再びの感想です。
玉木くんファンという枠を外れたものになると思うので
ファンのかたから見れば違和感が多少あるかな?
まあ、どんな感想でも見てみたいという人はどうぞお進みください。

さて、前の感想でも書きましたが、わたしこれが舞台初体験なんですね。歌舞伎とか抜きにして。
だからとにかく興味があったのは、
まずは舞台初体験の玉木くんが、どういう感じで舞台役者としての魅力を見せてくれるのか!ドラマをどれだけ語ることができるのか。広い会場の観客を捉えて離さないことができるのか?
第一にそこでした。

次に、「舞台芝居」というものへの好奇心です。

平面的な舞台で繰り広げられる会話中心のお芝居で、どれだけのことが表現できるだろうかと。
これはベトナムという戦場において、現実と自分の立場との葛藤に悩む戦場カメラマンのものがたりです。舞台装置や見せ方ひとつで、臨場感もがらりと変わるはず。
戦地で写真を撮るシーン、内省的なシーン、場面転換、モノローグなどをどう演出して見せるのか。カメラのアップやロングを使わずにどうひとの内面に迫るのかという部分に、凄く興味がありました。

前に書いたことと重複するかもしれませんが、舞台上での「距離感の出し方」はなるほどと思いましたねー。
あの有名な写真「自由への脱出」撮影時の、川を渡る家族の写真を撮るときのやり方にしても。泳ぐ親子はスクリーンで表現、教一の視線も親子の映像もこちら向き。つまり観客席の後方に向けた無限の広がりに視線が投げられているんです。これは、教一がベトコンにつかまって、皆が悲しみに沈む中、かえってくる場面でも同じでした。
教一を遠くに見て名前を呼ぶ同僚の姿が暗転し、帰ってきた彼がこちらを向いて舞台奥から登場する。(後で知ったのですが、新国立劇場の舞台って特別に奥行きがあるんですね)左右にしか広がりがないかに見える舞台を、このように使うんですね。お芝居の大半をしめるホテルのシーンでも、階段を使った上下の動きで動きに立体感を出していて、なるほどなーと思わされました。て、お芝居見慣れた人には今さらでしょうけれど。

テーマについて。
玉木くんのベトナム取材の旅見てても思ったんだけど、朴訥な、平和を愛するカメラ好きの青年が、戦場で「戦いに手を出さず」戦場を撮る。ということに対する葛藤をどう乗り越えあるいは戦うのかにはすごく興味がありました。あるいは戦場でどう変化していくのか、それをどう描くのかと。
でも、これだけ重いテーマを抱えた物語が、舞台に置いては随分とコミカルに咀嚼されてましたね。
テーマは登場人物各人に分割されて投影されてる感じがしました。
あこがれの米軍へのメッセンジャーとなった傭兵の青年/徳山秀典くん(イケメンで初々しくてなかなかいい!)アメリカとアメリカに追随する者を許さない女性カメラマン/紫吹淳さん(終始腹式呼吸の声がさすが宝塚☆)利によって動く風見鶏のような商社マン/秋山真太郎さん、(素直に笑えました。いいコミカルさです)清濁あわせ飲んで腹の底を見せないUPI支局長/別所哲也さん(よっ、ベテラン!あの柔らかなうまさと気遣いはさすがです)、いつくしむような愛、極限状況で待ち続ける愛を、追い詰められテイストなしにみせてくれたサタ/酒井美紀さん(まさに名演!)。

そして教一。
彼は、戦場を飯の種とする葛藤のさなかにいて、でもいい写真を撮って世間に、愛するサタに、認められたいと思う。
いい写真を撮ることは悪いことではない。でも被写体は戦争の被害者、あるいは加害者です。そこにおいてどこまで傍観者でいられるのか。彼はいつもそれを自分に問うていたと思います。

ものがたりの冒頭で撮っていたのは、蝶。そして名声を上げたのは、必死で米軍の攻撃から逃げる家族の写真でした。
サタが会いに来たとき、サングラス姿ですっかりベトナムに溶け込んでいたかに見えた教一は、でもサングラスを外すとやっぱり朴訥な彼のまま(これには和みました☆)そして、葛藤も悩みも彼の中にある。名声を得てなおさら、それは綺麗な目をしたままの彼の中で深くなっていたんですね。
小心で正直者で、妻を愛し家族を望む彼は、いつまでも雄々しいカメラマンにはならない。
その彼の中には、家族にひどい仕打ちをした父の記憶があったんですね。
戦地から帰ってから酒びたりになり、母を家族を殴って荒れた父。
あんなふうになりたくない、だから家族を持つのは怖い、と言い続けた教一。
でも彼は、戦場を知るにつれ、父の苦しみにも出会う。
たくさんの死と葛藤、非情にならねば生きていけない現実。父はその世界になじめず、真面目であったからこそ心を病んだ。英雄にも人殺しにもなりきれなかった。
それを知って、彼は父を許し、さらに【誇りに思う】ところまで来るんです。ここが一番、心に響いた部分でした。
でも、平和な日本に帰る時が来て、教一は怯える。
「ぼくは怖いんです。日本には戦争がない。日本で僕は何を撮ればいいんでしょう」
平和を愛する彼の、この問いは、深いです。この深さがこの作品の深みと言えるでしょう。

そして、役者玉木くんは、ある意味はかなげな、純粋な、何を経験しても知ったふうな目にならない澤田教一を、まさに等身大で演じていたと思います。

せりふ回し、共演者との呼吸、表情に動き、それも危なげがなく自然で、すべてがいとしかった。
澤田さんの実像がどうであったかは知りませんが、あの澤田教一は、まさにあの間、舞台の上だけに生きた命だと思います。そして、野太い声と人懐こさ、当たりはばからぬ涙を持つ「弱くて強い」澤田教一は、まさに今の玉木くんだからこそ演じられたキャラだったんではないでしょうか。
最後の「サタさん、堪忍!」「サタさんと家族が作りたかった」という叫びは、そのまま今の玉木くんと重なりました。たぶんここはファンの多くが思ったことでしょう。
そんな彼の身の内から溢れる自然な暖かさが、教一像に現実味と体温を与えていたと思います。

そして、最後に。
わたしはそうとう「重い話だ」という覚悟をもって舞台に望んだんですが、その予想は外れました。もちろん、いい方に。でも同時に、悪い方にもちょっとだけ、なのです、自分的に。
舞台なのだからわかりやすい演出で、大事なこともそうでないことも大声で、キャラ分けした人物に叫ばせて、時にコミカルに。
それはわかるのですが、あの少々長い「だるまさんが転んだ」も含めて、わたしには舞台芝居というか演出がなんというかTOO MUCHに感じられてしまうところも少々ありました。
たぶん、自然な演技の自然な芝居、しかも作り物よりドキュメンタリーが好きな私には、舞台芝居というものそのものが多少けたたましすぎるのかもしれません。これは向き不向きの問題ですが。
でも、舞台というのは直接役者に触れ、じかに熱とエネルギーをもらえる得難い場だというのはよくわかりました。そして多くの人が笑い、感動し、涙を流したという事実。その中心に玉木くんが座長として存在し続け、確かな成功を手にしたという事実。
それが何よりいま、嬉しいです。
芸能界というのは心を込めたから時間をかけたからと言って確かな成果をくれるとは限らない。それは玉木くん自身が何度も経験してきたことだと思うけれど、「決して失望させません」と言っていたこのお芝居が大成功、大盛況のうちに終わったことを、本当ほんとうにによかったねえと心から思います。

玉木君、共演者のみなさん、お疲れ様でした。そして、いいお芝居をありがとうございました!
この成功が、次のお仕事へのいいステップとなることを、ファンとして心から祈ります。
$水☆迷☆宮