真の伝授と師弟関係 | サイキックカウンセラー 霜月 神舟

サイキックカウンセラー 霜月 神舟

サイキックカウンセラー 霜月 神舟と申します。
主にこのブログではスピリチュアルの話や心霊、不思議な話、
気付きや高次元からのメッセージをお届けしています。
たまに武道の話とかやってます(^-^)
よろしくお願い致しますm(__)m

 「師」というのは芸事に於いて非常に大切な存在です。
私は武道家なので、師という者を重んじています。


さて「師を持つ者」「師を持たない者」どちらが良いのでしょう?

 近年武道に於いて言えば、「師を持たない者」が増えてきています。
これはネットや情報が氾濫しているからだろうと感じております。
ネットで有名になった者を模範として自分一人で真似事をして

工夫研究する傾向が見受けられます。
色々な情報が手に入るのはとても良い事でありますが、

その活用を間違えるといけません。

 私が幼少の頃は勿論ネットなどは無く、何かを習う場合自分の足で探すか、人に紹介されて習い事を始めるものでした。

しかし、その頃にも面白い物がありまして、

所謂「通信教育」というものです。

 

これはテキストが送られて来てそれを自分で研究して真似ごとをするのです。現在のネットでの動画はこれよりはずっと分かり易く、真似をして自分があたかも達人になった様な気分にさせてくれますね(笑
もしかすると、かなり器用な人がいて自分で工夫しただけである程度強くなったりするやも知れません。
しかし、それは所詮独学でしかありません。
そういう人は色々な武道や武術を巡り歩き、少しかじってはまた次へと転々とするパターンが多く見受けられます。
色んな物をかじればそれだけ色んな事を知る事ができ、知識は豊富になりますが全てはバラバラで個別の寄せ集めでしかないのです。

バラバラの物と言うのは実際には使い物にはならないのです。
 
 昔から「三年かけて師を探せ」と言います。
しかし、私から見れば「三年もかけて師を探している様では

死と言う存在に縁がないでしょう。」 なのですが(笑

 それでは「師を持たない者」と「師を持つ者」の違いは

一体何でしょうか? 


「師を持たなくても強ければよいではないか!」 と思われる方も

居る事だと思います。
「師を持っても強くなれない者もいるではないか!」と言う

意見もあると思います。


しかしながら、何処かに入門して弟子になったとしても、

「本当の師弟関係」

を結べるか否かは別問題なのです。
よく内弟子と通弟子の違いという事を聞きますが、

一体何が違うのでしょうか?
単純に考えれば内弟子は毎日毎日稽古していて、通弟子は週に何回かで稽古量が違う。

という風に思われがちですが本当にそうなのでしょうか?

 以前鶴瓶師匠が自分の師匠の話をテレビでよくやってました。
その時に師匠の真似をやるのです。
喋り方とか仕草とか。
それが私はとても好きでした。
鶴瓶師匠の師は見た事ありませんが、おそらく物凄くよく似ているのではないかと思います。
笑い話として聞いていてもとても面白いのですが、鶴瓶師匠が自分の師匠の真似をする姿を見ていると、師匠の事が大好きで大好きで堪らないのだろうと思いました。そして、師匠の体感覚を持って居られるのだろうとも感じるのです。


実はこれが大変重要なのです。


「師の体感覚を持つ」 と言うのは「師の人間性を頂いた」という事で、言葉を変えれば「師の生命を頂いた」という事でもあります。内弟子が通弟子の及ばぬ境地へ達するというのは、師の全てを観察して、その感覚をいつの間にか頂いているからであります。

稽古量が通弟子より少ないという場合もあると聞いた事があります。

しかし、長い年月を経ると通弟子では到底及ばない世界へ

足を踏み込む事になるのです。


師の話し方、癖、歩き方、考え方、それが自然自分の中に

入って来る様になるのです。
現代社会では、武道の内弟子などという時代錯誤な事が出来る環境ではありませんが、師を真に慕うという気持ちがこれに近い現象を引き起こさせてくれます。「師を信じる」と言うのは当然非常に大事なのですが「盲信」ではありません。これは言葉では言えない感覚の世界ですが「妄信」「盲信」の類は危険です。
形のない世界は、こういう危険性があります。

感覚的に判断できない人、明後日の方向へアンテナを立てている人は騙されたり洗脳されてしまいます。
でも、もしかするとそちらに走ってしまう人はやはり真の師に縁のない部類の人達なのかも知れませんね(^^;)
それはそれで必然と言えるのかも知れません。

 では、偽物と本物の違いを如何に判断するのか?なのですが、これは非常に難しいと言えますし、非常に簡単だとも言えます。

第一に「直感」
これが鋭い人は見ただけで「・・・おかしい。」と感じます。
正しいものを求めている人は「私には合わない。」

「私の求める人ではない。」と感じるかも知れません。
常に本物を目にしておくというのは、この「目利き」の訓練となります。

色んな分野で人、物、作品等本物に触れる事がポイントです。


第二に「やたらと有名な人」
これは信用できません。テレビ、雑誌、書籍、ネットなどのメディアで持てはやされている人は先ず三流だと思った方が良いでしょう。宣伝の上手い人は自信の無さの表れである事が多いのです。

また、自己顕示欲や名誉欲、金銭欲に憑りつかれた人。

こういう人にも本物はいません。

表情や話し方、話の内容をよく観察していると直ぐに分かります(笑

第三に「教えたがる人」
口でグチャグチャと理屈や理論を話したがる人は未熟です。

悪い人ではないのですが、人を教えたり導いたりする力は

持って居りません。

そして、本人自体も大して出来ないのです。

出来ないから口を使う訳です。本当に教える事や導く事が出来る人は要らぬことは話しませんし、それ程言葉は使いません。

必要な時に必要な事を一言二言アドバイスをくれるだけです。

第四に「見た目凄い人」
誰が見ても凄い!と言われている人は案外大した事が無い

場合があるので気を付けなくてはいけません。

所謂「素人受け」する人です。こういう人は良い部分も持っているのですが片手落ちが多い場合があります。
パーツ取りには持って来いの相手なので私は利用しますが(笑
しかし、本当に凄い人は見てもよく分からないものなのです。

普通にしか見えないのです。

それに余り摩訶不思議な事も致しません。
それは本人が普通の感覚だから、

見た人も普通にしか見えないのです。

凄く見える人は本人も「特別凄いだろ?」という様な感覚を

持っているのです。だから、良い面もあるという事ですが本物の領域には程遠いですね。


外にも色々とありますが取り敢えずはこれくらいに(笑

 それでは次に「師」と言うのは自分にとってどういう存在なのか?

なのですが、「師」は自分の軸を作ってくれます。

「師を持たぬ者」は軸が出来上がりません。
軸がぶれる人はフラフラとして地に足が付かず

根無し草の様な状態です。

これでは本当の極意には到達できませんね(^^;)
なので、初心の頃から色んな所を回って色んな先生に色んな事を教えてもらっている人は軸がないのです。
これは当然の事だと私は思っております。
先ずは一人の師について、確りと師から技や人間性を学び、自分の肥やしにして土台を作り、芽を育てていきます。始めから色んな人に教えを請うたり、違う物に手を出したりすると寄せ集めの状態になるので

土台となる信念や観念と言った重要な要素である「芽」は

育たないのです。

ですから、手を広げるのは随分後でも全然遅くはないのです。
自分という物が確立出来てから外を学ぶ事をお勧めいたします(笑

 技や感覚は基本的に「以心伝心」で受け取るべきものです。
勿論口伝えもありますが、それは補助的なものであります。感覚をそのまま頂く事が出来れば最高ですね(^-^)

 

これは

 

「意識の送受信」

 

だと私は教えております。

 

武道では「呼吸法」で、これを練るのです。

気と言うのはエネルギーですが、そこに色々な情報を乗せて

発信する事が出来ます。これが武道の極意でもあるのです。

スピリチュアルではヒーリングなどで活用できると思います(^-^)


しかし、以心伝心という教習法は、始めは師の言う事や、やっている事が全く理解できずに悩ましい日々を繰り返しますが、それでも真摯に求め続ける者は、何れ「見て学ぶ」という事が出来る様になります。
ただ、「見て学べ」と簡単に人に言うのは如何なものかと

私は思う時があります。


何故なら「見て学ぶ」と言うのは非常に高度な教習だからです。

また、「見て学ばせる」事の出来るレベルの師が必要となります。


これがお互いに出来る様になると

師弟の有り難さが本当に理解できるのです。
師は何時も「見せて学ばせてくれている」のです(笑

 本当の師たる者は「死んでから教えをくれる先生」だと昔聞いた

事があり、我師もそう申しておりましたし、私もまたその通りだと

思っています。


「死んでから師」である「師」が本物の先生なのです。


自分が迷った時や工夫している時に突然!

「あ!あれだ!」

と、師の一瞬の動きや仕草の映像が頭に現れたり、

「先生はああやっていたなぁ。」

と、何時までも何処までも自分が死ぬまで模範である姿を

示してくれます。
こうなる為には「師」を「師」と実感出来る様にならねばなりません。
それは「師」の問題ではなく、「自分」の問題なのです。
「自分が求めに求め抜く」事なのです。
師はちゃんとそれを待ってくれているのです。
私が最近教えて頂いた事の中に

「師弟の契約」

という言葉があります。これは不立文字、問うてはならぬもの。
師弟両者が言わずとも感じる世界だと教わりました。


私は何と美しい世界なのかと涙が出る思いで聞きました。
こうなると「師弟の契約」は「魂と魂の契約」という事にも

なりますね(^-^)
これを感じれる人は多分ほんの僅かな人間だけなのでしょう。
今では「師」を「学校の担任」程度にしか認識していない者が多く、

情けなく感じます・・・・。

という事で、まだまだ書き足りないのですが幾ら書いても尽きる事がないのでこの辺で終わりにいたしますね(笑