今週月曜日の現代ビジネスに、世紀の発明「フラッシュメモリーを作った日本人」の無念と栄光という記事が載っていました。

元東芝の舛岡氏の話です。

 

以下のウェブサイトでは、記事が途中で終わっていますので、ドコモのdマガジンで全体を読んでみました。ウェブサイトにない部分は、以下になります。

 

舛岡氏が職務発明で東芝を訴えたのは、研究者を評価する風土を作るため。

東芝には何の恨みも持っていない。今ではただただ感謝している。

 

平成5年頃から、毎年のように知財制度が改正されてきました。多少の問題はあるせよ、日本の知財制度は世界一だと思います。

問題は発明、デザイン、コンテンツを生み出す創作部分ではないでしょうか。

 

米国や中国よりも人数は少ないかもしれませんが、我が国にも優秀な人材はいます。

知財立国を実現するには、知財制度の改正でなく、そのような人材を支援する体制作りが、重要なのではないでしょうか。

舛岡氏や中村修二氏の話を聞くたびに、知財制度の問題ではないと感じます。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59572

会社のためにどれだけ骨身を削って働こうと、努力が報われない。そんな逆風のなかでも自らの信念を貫き続け、世界的偉業を成し遂げた男がいる。今日発売の「週刊現代」で、決して平坦ではなかったその苦悩の道のりを追う。

ジョブズと並ぶ日本人

「フラッシュメモリーの登場によって私達の生活は驚くほど一変しました。この発明による舛岡さんの社会への貢献は、同じエンジニアの目から見てもノーベル賞に値するほどの価値があると思います」(半導体メモリー開発企業・フローディアの奥山幸祐社長)

米国、シリコンバレーにあるコンピューター歴史博物館。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった錚々たる面々と並んで、一人の日本人の写真が掲げられている。

舛岡富士雄(75歳)。あまり聞き馴染みのない名前かもしれないが、'87年、東芝の研究者時代に「フラッシュメモリー」を世界で初めて開発した人物だ。

小さく、安く、大容量。そして何より、電源を消してもデータが消えない。かつて主流だったメモリーは、電源を消すとデータが消える弱点を抱えていた。

この課題を克服する画期的な記憶装置として、フラッシュメモリーは、パソコンから携帯電話まで、身の回りのあらゆる製品に使用されている。

いまや、その市場規模は7兆円とも言われる「世紀の発明」だが、舛岡の名はおろか、この開発が日本人によって行われた事実すら、知る人は多くないだろう。

舛岡本人が語る。

「どれだけ世の役に立つ発明をしても、成果物は会社のもので、それを作り出した本人は評価されないのが現実でした」

舛岡は、フラッシュメモリーの試作品を開発してから7年後の'94年に、51歳で東芝を去っている。その後は母校である東北大学大学院の教授となり、退官するまでを過ごした。

したがって、東芝でフラッシュメモリーが実用化され、市場を席巻していくさまを、その一員として見ることはなかった。

なぜ、革新的な発明をした天才は、東芝を去らなければならなかったのか。そこには無念と栄光の物語があった―。

 

上司への直言も辞さない性格ゆえ、敵も少なくなかった舛岡を一貫して守り続けた武石の死は、社内での舛岡の立場を一変させる。

会社が舛岡に提示したポストは、研究所付の技監。研究所のナンバー2といえば聞こえはいいが、部下も研究費もない、いわば「閑職」だった。

「研究の場を失うのは、エンジニアにとって死を意味します。どうしても納得がいかず、自分の上司に不満をぶつけて3年間必死で抵抗し続けました。しかし、『命令に従わないなら一人で勝手にやれ』というのが会社の結論でした」(舛岡)

研究したいのにできない。「飼い殺し」ともいえる状況に耐えかねた舛岡は'94年、なかば追われるようにして23年間勤めた東芝を去り、東北大の教授職に就いた。

 

その後、事態は急変する。2000年代、パソコンの普及により、フラッシュメモリーの売り上げが爆発的に伸びたのだ。

'01年には市場規模は9兆円を突破。東芝は'01年にDRAM事業から撤退し、フラッシュメモリーに経営資源を集中させると発表。時代がようやく舛岡に追いついた。

たとえ会社から評価されなくとも、自らの信念を貫き続けた舛岡。その執念の果てに作られたフラッシュメモリーが使われ続ける限り、舛岡の栄光が色褪せることはない。(文中一部敬称略)

発売中の週刊現代では、このほかにも'04年に舛岡氏が東芝を相手に起こした訴訟の真意や、古巣への現在の思いなどについても特集している。

「週刊現代」2019年2月9日号より