京都⑧ 西大路五条交差点~西大路通経由~金閣寺


西大路通  

車は、西大路五条(ニシオオジゴジョウ)の交差点に進めて参りました。


五条通を後に、西大路通(ニシオウジトオリ市道181)へ入ります。


この『西大路通』は、昭和の始め頃まで田畑(タハタ)の中に農家が点々としていた所でしたが、現在では急速に発展して、この辺りから左手、西南一帯は、京都の工業地帯になっています。何と言っても京都は、『文化観光都市』としての色彩(シキサイ)が強く、重工業への発展は臨(ノゾ)めない様ですが、この辺りは古い文化財から離れていて、更に広い面積があることから、数少ない京都の工業地帯になっています。 



左大文字山(ヒダリダイモンジヤマ) 


皆様、前方、ご覧下さいませ!


『大』という字の形に、木のない山がご覧いただけますが『左大文字山』でございます。


こちらは、東山(ヒガシヤマ)の『大文字山』と区別するために『左大文字山』といいますが、東山の『大文字山』と同様、八月十六日の夜、お盆の送り火(京都五山送り火)として火がともされます。


昔は、今の様な火床(ヒドコ)はなくあの山に縄で大の字を書き、一間(イッケン)おきに丸太(マルタ)を打ち込んで、『かがり火』の鉄かごをかけたのですが、始めの縄の張りかたによって、下手(ヘタ)な字になったり達筆(タッピツ)になったりしたそうです。



参考

夏の夜空を彩る、京都五山送り火は、お盆の精霊を送る伝統行事です。

東山の大文字(如意ヶ岳 大文字山)に大の字が浮かび上がり、続いて松ケ崎に妙・法、西賀茂に船形、大北山に左大文字、そして、嵯峨に鳥居形が点(トモ)ります。これら5つの送り火はすべて京都市登録無形民俗文化財です。

(点火時間は各山とも約30分間。気象条件によっては点火時刻を変更する場合もあります)


大文字(如意ヶ岳 大文字山) 

20時00分

妙・法(松ヶ崎・西山・東山) 

20時05分

船形(西賀茂・船山)

20時10分

左大文字(大北山・大文字山=大北山)

20時15分

鳥居形(嵯峨鳥居本・曼荼羅山)

20時20分


山陰本線  


これから、山陰本線『嵯峨野線』(サガノセン)をくぐります。      


 


円町(エンマチ)    


車は、円町の交差点へ進めて参りました。


左右の通りは『丸太町通(マルタマチトオリ)』で、左手に参りますと、双ケ岡(ナラビガオカ)、映画村などのそばを通り嵐山方面に、又、反対右手に参りますと、京都御所から平安神宮方面におこしいただけます



地蔵院(椿寺=ツバキデラ)  

右手、土塀(ドベイ)に囲まれたお寺は、浄土宗(ジョウドシュウ)の地蔵院でございます。

『八重散(ヤエチリツバキ)』がある所から『椿寺(ツバキデラ)』とも言われております。

四月頃になりますと、真紅(シンク)、純白、紅白シボリと見事にさきわけ、その上花びらが一枚一枚散るという大変めずらしい椿の木です

また、椿のそばに『天野屋利兵衛(アマノヤ リヘエ)は男でござる』と歌舞伎(カブキ)でご存知の、赤穂浪士(アコウロウシ)の武器を調達(チョウタツ)した天野屋利兵衛のお墓がございます。


正 あまのや   りへえ


誤 あまの   やりへえ


白梅町(ハクバイチョウ)  


車は、白梅町の交差点に進めて参りました。

こちら、左右の通りは『今出川通(イマデガワトオリ)』でございます


先程、遠くに見えておりました『左大文字山(ヒダリダイモンジヤマ)』がすぐ間近(マジカ)にご覧いただけます。


※金閣寺を訪ねる場合は、この辺りから話を入れて下さい。

金閣寺ー後述

      


平野神社

平野神社は、延暦13年の平安遷都にともなって、桓武天皇により創建された由緒ある神社。 今木大神(いまきおおかみ)、久度(くど)大神、古開(ふるあき)大神、比売(ひめ)大神かの四神をそれぞれ別殿に祀っており、創建当時は御所に匹敵するほどの敷地を有した大神社だったそうです。

江戸時代から夜桜が庶民に開放されて以来、「平野の夜桜」として地元の人・観光客から人気を博しています。

約60種・約400本桜が彩る夜空は京都でも指折りの美しさを誇ります。

こちらは、女性の守り神・比賣大神(ヒメノ オオカミ)をお祀りすることから、縁結び(エンムスビ)や子宝(コダカラ)のご利益(リヤクを授(サズ)かれるとして、女性を中心に人気を集めています。


わら天神 

わら天神のご祭神(サイジン)木花開耶姫命(コノハナ サクヤヒメノミコト)は、安産・子授けの守り神として信仰されています。

安産のお守りのわらにふしがあれば男の子、なければ女の子が産まれるという言い伝えがあります。


衣笠山(キヌガサヤマ)   

左手に、なだらかな姿を見せている山は『衣笠山』でございます。

その昔、(三代将軍足利義満アシカガヨシミツ)が金閣寺を建てた頃)小松(コマツ)天皇が夏の暑い日に『雪見の宴(ユキミノエン)』がしたいと言われ、義満があの山に真っ白な絹をうちかけたそうです。

その事から『きぬかけ山』といわれていましたのが、いつの頃からか『衣笠山(キヌガサヤマ)』となったそうです。


金閣寺  

間もなくで、金閣寺に到着いたします。


これから、お訪ねいただきます金閣寺、正しくは『鹿苑寺(ロクオンジ)』と言って臨済宗相国寺派(リンザイシュウ ショウコクジハ)の別格本山(ベッカクホンザン)でございます。

元(モト)、西園寺家(サイオンジケ)の別荘でしたが、応永(オウエイ)4年(1397)足利三代将軍義満が譲り受けて隠居所(インキヨショ)とし『金閣寺』を建てました。

その頃は、『北山殿(キタマデン)』といって度々(タビタビ)天皇の行幸(ギョウコウ)を仰(アオ)いだ所といわれましたが、義満が亡くなくなりました時、遺言(ユイゴン)により夢窓国師(ムソウコクシ)を招(マネ)いて開山(カイサン)し、義満の法名(ホウミョウ)をとって『鹿苑寺(ロクオンジ)』という禅宗(ゼンシュウ)のお寺にしたのです。


参考

※開山=寺院を創始(ソウシ)する事

※義満の法名ー鹿苑院太上法王(ロクオンイン ダジョウホウオウ)


境内(ケイダイ)には、自然を取り入れた立派なお庭が広々と続き、昔は、沢山(タクサン)のお堂が立ち並んでおりましたが、応仁(オウニン)の乱により『金閣寺』と『不動堂(フドウドウ)』のみを残すだけとなりました。


金閣は、足利時代の代表的な建物ですが、昭和25年7月2日、心なき人の為に惜(オ)しくも焼けてしまい、現在の建物は、昭和30年10月に総工費四千万円を費(ツイ)やして再建されました。


※火災の原因は、修業僧(シュギョウソウ)の放火だそうです。


ところで『金閣』とは、金箔(キンパク)を用(もち)いている所から名前がつけられておりますが、この金閣寺の金箔の全面張り替え工事が行われ昭和62年10月25日に完成し11月1日から一般に公開されております。


この修復工事は、金箔をはがして新たに張り替えるという大掛(オオガカ)かりな物で、柱に漆(ウルシ)を30回以上、塗り重ね、その上に金箔を張(ハ)っております。使用された金箔は10㎝四方(シホウ)の物が10万枚、20kg、漆が1450kg、総工費7億4千万円を費やしております


今では、創建(ソウケン)当時さながらの金色に輝く舎利殿(シャリデン)が、北山(キタヤマ)をバックに室町(ムロマチ)幕府全盛時(ゼンセイジ)を忍(シノ)ばせております。


                  


金閣   

金閣は、鏡湖池(キョウコチ)に臨む三層(サンソウ)の楼閣(ロウカク)で、初層(ショソウ)は藤原時代の「寝殿造(シンデンツク)り」で法水院(ホウスイイン)と呼ばれ、又、二層(ニソウ)は鎌倉時代の「武家造(ブケヅク)り」で、潮音洞(チョウオンドウ)と言い、三層は中国風禅宗(チュウゴクフウ ゼンシュウ)の『仏殿(ブツデン)造り』で究竟頂(クッキョウチョウ)と呼ばれております。

この様に、三つの異なった様式を備えているのが特長でございます


※又、初層には『お釈迦様(オシャカサマ)』の遺骨(イコツ)が安置(アンチ)されている所から『金閣』のことを『舎利殿(シャリデン)』とも呼ばれております。


ところで、金閣をご覧いただいた後(アト)、しばらく庭園を歩いていただきますが、途中『夕佳亭(セッカテイ)』と言う茶室がございます。


ここは、江戸時代の始め頃、茶人(チャジン)『金森宗和(カナモリソウワ)』の好(コノ)みで作られた物といわれ、正面に『南天の床柱(ナンテンノトコバシラ)』が、又、その右側には三角(サンカク)の棚(タナ)『萩の違棚(チガイダナ)』が用いられ、現在の建物は、明治時代の物といわれております。



拱北桜(キョウホクロウ)  

又、その『夕佳亭(セッカテイ)』の裏側には、義満の居間(イマ)の旧跡(キュウセキ)と伝えられる『拱北桜』がございます。

明治27年(1884)の再建