5-1 拾遺
同じホラティウス作品の引用がルソーの「エミール」と『告白』にあるという
ことで、前章ではルソーについて、少し長く語ってきたが、「拾遺」と章は変わってもルソーは続く。
ホラティウスの詩の要所での引用が少なくとも2つ、いな3つある。うち2つは「エミール」(「中巻」原第4篇)にある。
最初の引用は、その内容が知られるに及んで、ルソーの人生を激変させる「サヴォアの助任司祭の信仰告白の直前にあり、あと一つはその告白も終わり、エミールが理想の伴侶を探すためにパリをはなれるという、次の下巻(原著第五編)を告知する場所にある。できるだけ簡潔にふれるにしたい。
残る1つは、ルソーの文壇へのデビュー作「学問芸術論」にある。
最後に、ルソーと同様に多くの引用を「エセ―」に残しているモンテーニュを少しとりあげて結びとしたい。
5-2
「エミール」中巻への一つ目の引用は、こんな文脈のなかにあり、
ホラティウスの2行が置かれている。
「理性を最もよく用いることがかれ(エミール)を導いていくことに
なる宗派を選べるような状態にかれをおいてやることにしよう。
いつわりの灰が覆っている
火の上を私は行く。(「カルミナ」Ⅱ・1)
しかしかまわない。私にとっては熱意と誠実な心がこれまで思慮の
かわりになっていた。」さらに数行あと自らのモットーが自分に念
を押す。「私はけっして自分のモットーを忘れはしまい。」(中巻
P109)モットーはこうである。ユウェナリウス「真理に身を捧げる
(Vitam impendere vero)」
まさにこのホラティウスの引用の次のページからサヴォワの助任
司祭の紹介(出会いのエピソード)に入る。紹介に続き、助任司祭
の信仰告白がなされる。その自然宗教思想ゆえに、「エミール」は
発売禁止・焚書処分となり、逮捕状まで出て追われる身となる。
「全集」によれば、「カルミナⅡ・1」は「ローマ内戦史を書い
ているポリオへの警告」と題され、ガイウス・アスィニウス・ポリオ
宛てで制作年は不詳であり、その冒頭(2連)にある。引用しよう。
あのメテルスがコンスルの
年(前60年)から後の内乱や:
その戦の原因や、
その失敗や、成り行きや、
運命の女神の翻弄や、
ひどい結果をもたらした
指導者たちの友情(三頭政治)や、
未だに清められずにいる
鮮血に塗れた剣などの
危険な賭けで一杯な
テーマを貴方は扱っている。
覆われた灰に隠された
5-3
火の上を歩くようなものだ。
ポリオはホラティウスより11才年下の友人で前40年のコンスル。前
39年には戦功をたて、アントニウスとの抗争ではアウグストゥスは彼が
中立の立場をとることを容認する。ポリオは共和制の伝統の支持者で、
晩年は著作に専念したが、詩にある前60年以降の内乱史をはじめ、著作
は残っていない。紀元後5年、80歳で没。
引用されている部分(太字)の「全集」での訳注はこうである。
「まだ生き残りの共和派の残党が残っていた。論功行賞で土地財産を奪わ
れた共和派(およびアントニウス派)の不満分子がいた。」つまり、前60
年以降(第1回三頭政治以降)の歴史を書くのは、「いくつかの大きな戦
いで戦勝をあげたとはいえ、共和派の残党なども各所にいてこれから先
の見通しは予断を許さない」と、警告している部分である。すぐ後に、
徹底的な共和派小カトーを賞揚する詩行(「勇敢なカトーの心は別として」
:6連)もある。書くことへの決断が問われる場面である。ルソーはどこ
までこの詩の背景を知っていたのであろうか?
5-4
「エミーㇽ」中巻の終わり近く、2つ目の引用がある。「格言」とも
なっているホラティウスの詩句が引用されている。
「健康な体をもち、生活に必要なものに事欠かない人なら、自分の心
から,臆見にもとづく幸福など捨ててしまえば、十分豊かな人間にな
れる。それがホラティウスの「黄金の中庸」だ。」(中巻p308)
「全集」によれば、「カルミナ」Ⅱ・10で、「中庸の徳(Rectius
Vives)」と題された詩の冒頭部であり、ルキウス・リキニウス・ムレー
ナ宛である。
正しく生きよ リキニウス、
何時も、無理して大海に
出ようとしたり、恐ろしい
嵐が来たら、うっかりと
海岸などに近寄るな。
黄金の中庸を好む者は
用心深く、手入れなど
しない家屋は避けながら、
羨まれるような邸宅も
用心深く避けている。(太字野口)
冒頭の1行目でも明らかだが、リキニウスへの警告の詩であるが、前23年
コンスルとなったリキニウスは警告を聞かず、同年反乱を起こして処刑され
る。従って制作年は前23年以前である。
ルソーの「エミール」での「黄金の中庸」の理解は、用心深さ、賢明さより
も、富は幸福につながるものでない、という理解である。
引用部のすぐ前にはこんな文もある。「趣味の人、本当に快楽を愛する人
には財産など何の使いみちもない。自由で、自分を支配することができれば
それで十分なのだ。」(同上)
これらは、パリを離れ、ソフィーを探す旅に出るエミーㇽへのはなむけの
言葉である。このページで中巻(原著第4篇)は終わる。
5-5
ルソーは最初の懸賞論文応募作「学問芸術論」の扉で、ホラティウスの「詩論」から、以下のように引用している。短い序文があり、やはり短い論説がある。この論説の扉に引用の詩句があり、論説に続いてはすぐ本文に入る。
「我々は正しそうな外観によって欺かれる。」(「学問芸術論」岩波文庫p11、ホラティウス「詩論」25行)
「全集」ではこの部分と思われる。大変長い「詩論」の最初の見出し「詩作の一般的原則」のなの2番目の小見出し「作家論」の冒頭に(最初から12番目に)こんな詩行がある。(太字は野口)
「作家論」
お父上、および父上を
辱しめない御子息たち。
我々詩人の大半は
一見まともに見えるものに
誑かされているようです。(「書簡詩」Ⅱ・3 詩論 ピソー父子宛て)
書簡詩Ⅱ・3はふつう詩論と呼ばれ、ピソー父子とは前23年コンスル代理
で、前15年のコンスルだった、父とその子を指し、代々ローマでの図書館
建設の中心となっていた。制作年は前20—19年である。
ホラティウスの中でも『詩論』はルネサンス期までに文筆の規範とされ、
アリストテレス以上に読まれたという。この引用は大変目立つ位置に置か
れているが、古典古代の銘句の引用は懸賞論文への応募の作法の一つでも
あったようである。(「ルソー 透明と障害」スタバロンスキー)
懸賞論文を提起したディジョンの王立アカデミーの題は、〈学問と芸術
の振興は習俗の純化に寄与したかどうか〉というものである。短い引用は
題意に的確に対応しているといえる。
5-6 モンテーニュ
ルソーと並んでモンテーニュにもホラティウスの引用は少なくない。もちろん「エセ―」という〈自由な〉形式が引用を容易にした、ということは出来るだろう。「エセ―」7巻は、書き続けてた「エセ―」の最終巻であり、内乱による「祖国の荒廃」と「わが生命の荒廃」が重なりあったと書き出し、国家の荒廃について語り、死について語り、エセ―の意味について振り返り、推定される批評についても論じている。
それらのあとに短い前置きがって、ホラティウスのアポロンへの祈願の引用があり、「エセ―」全巻は終わる。
老年期は、少しばかり優しく扱っていただく必要がある。そこで、健康と、陽気で気さくな知恵の守り神であるアポロン神に、老人の生活のことをくれぐれもお願いしておこう。
ラトナの息子アポロンよ、私が手にしている幸福を、健康のうちに享受できますように、そしてまた見苦しく、琴を弾くこともできないような老年を過ごすことがないように、心からお願いいたします。(「カルミナ」1。31・17-20、『エセー』7巻 p341—2)
「全集」ではどうか。「カルミナ」1・31で「詩人の願い(ローマの図書館)と題された詩の最後の
連(7連)全体である。前28年の作。この年の10月、アウグストゥスは、8年がかりで建築中であったアポロの神殿の竣工式を行った。そこにはギリシア語とラテン語の二つの書庫を持つ図書館があり、アレクサンドリアに対抗していた。その竣工を祝う作品だろう。
ラトーナの子、神アポロよ。
神の備えたものだけに
満足しているこの僕に
まともな心と健康を
与えて下さい。お願いです、
哀れな僕の晩年を
キタラもなしに過ごすような
ことにはならずにして下さい。
モンテーニュは「エセ―」への、さまざまな引用について同じ7巻で「わが著作に
借り物の飾りが付き添っているところはある」(p226)と認めた上で「自分の手」でわ別なニュアンスを与えることによって単なる借り物に終わらないようにする」(p227)と弁明していることで分かるように、一世一代の自分の作品を、どの作品の、どの部分の引用で終わらすか、考えたにちがいない。
5-7
そしてこの定型に落ち着いたのだろう。
健康で、という内容に加えて、「古代ローマの盛期」※への愛着、からいっても。
※「自分が現代には無用な存在だと悟ると、私はローマ時代に退いていく。そして、すっかり手なずけられてしまい、自由で、公正な、古代ローマの盛期に(略)興味を抱き、夢中になっている。」(7巻 p104)