近頃、いわゆる「死体蹴り」という言葉を使って、斎藤知事支持者を批判する極めて質の悪い反対派がいる。そのやり方の汚さ醜さはしばき隊の影の擁護者立憲民主党の醜さ汚さを象徴しているといえよう。
先日伊丹市長選挙に立候補した茶谷の選挙演説中に登場した黒装束に身を包んだ、ショッカーのようなしばき隊が例によってプラカードを掲げていた。
さてこの「死体蹴り」という言葉だが、いかにも残酷な印象を与えはしているが、果たしてそうだろうか。
斎藤知事が記者会見で渡瀬元県民局長が公務時間中に公用パソコンを使ってわいせつな動画を作成したことを常に批判し続けた産経新聞の喜田記者や尾形某、そのほか数人の記者が「亡くなった人への名誉棄損が続いているが、それを止めないのか」といまだ質問している。彼らもいわば斎藤知事が死体蹴りをする犬笛を吹いているといっているわけだ。
まあ斎藤知事が直接いわゆる死体蹴りをしているわけではないが、上記のようなおつむのよろしくないしばき隊は茶谷候補のように斎藤知事擁護者まで濡れ衣を着せているわけだが…
私から言わせれば
「死んでも蹴られるような奴はそいつが生きてるときに、よほど悪いことをしたからだ」
ということを現実として受け止めねばならないということだ。
それがたとえ自死であればなおさらだ。
「勝手に死んで何しとんねん!死んだ後まで迷惑かけやがって」としか思えない。
実際渡瀬が何をしていたか、どれほどおぞましくて破廉恥なことをしていたか、どれほど汚くて醜い知事おろしをしていたかは死んでからどんどん明らかになり、妻を裏切り、他人の家庭や人生を破壊し、権力をかざして、県民の税金を盗み、地に堕ちた倫理観で女性を食い物にし、中居正広以上の悪行三昧を行い、どれほどの悪人であったかを庶民は知るようになってきている。
はっきりいって蹴られて当然なのだ。
竹内にしてもそうだ。百条委員会の斎藤知事への詰問の仕方はもはやいじめであり、ハラスメントであり、誹謗中傷であった。しかも斎藤知事おろし計画の中において重要なカギを握る人間であった。それなのに自身の責任を問われると、意気地なしのチキンですべてを明らかにせず説明責任を果たさぬまま自死を遂げた超卑怯者であり、その死に何ら同情する余地はない。竹内が死後も蹴られるのは説明責任を何一つ果たさず、死という手段を選んだからである。自分の正当性があり信念があるなら弁明すべきだった。それが政治家というものだ。実際彼が善人であるという風潮を叩き潰したのが身近でよく事情を知っている池田鬼神丸国重だ。
「なにを勝手に死んどねん!!弁明しなかったのは、お前が黒幕やからやろ!お前が立花を怖がったのは誹謗中傷がもたらされるからではなく、立花に悪事を暴露されるから、縮み上がっとったんやろが!被害者面スンナ!!」
竹内が死んでなお蹴られ続けるのは百条委員会での斎藤知事に対する尋問の仕方があまりにもハラスメント気質丸出しで、敬意のかけらもなく、その傲慢な資質とやり口が卑劣極まるものであったからだ。その質問内容ではない。質問の態度が多くの人の嫌悪感を招いたのだ。己のまいた種だ。蹴られて当然だ。
前にも書いたが、ヒトラーの最後は自死である。しかし彼の死後ホロコーストの内情が暴露され世界は震撼した。ではヒトラーを批判するのは死体蹴りになるのか?
麻原彰晃は、公判中に自分のしたことを何ら説明しなかった。そして死刑に処された。では麻原が説明をしなかったことで世間はそれをそれを許したのだろうか。彼の無責任な態度を見て、彼の熱烈な信奉者であった、高弟・新美元死刑囚は心が離れた。土屋もそうだった。ではこの高弟たちは教祖を見限ったが、それは教祖を裏切ったことになるのか。違う。むしろ教祖が高弟たちを裏切ったのである。
毎年3月20日前後には地下鉄サリン事件に関する特集が組まれ、その中では卑怯にも説明責任を果たさず死んだ麻原彰晃を批判しているが、それは「死体蹴り」になるのか?
ヒトラーにしても麻原にしても生前の所業があまりにもひどく、しかも両者とも説明責任を果たさず死んだ。だから余計に世間の批判は手厳しい。
渡瀬にしても竹内にしても、自己を弁明し、その正当性を訴え、説明責任を果たすべきだったのだ。しかしそれをしなかったのは自身の悪行悪業がバレるのをひたすら恐れたからだ。その卑怯な態度ゆえに彼らは今なお批判され続けるのだ。死んでも蹴られるのは死んだ人間がそれほど悪いことをしたからだ。実際凶悪犯が死んだときにはその被害にあった人が死体を蹴ることはあるだろう。それはそいつが悪いからだ。
彼らの死を利用し、斎藤知事を批判するメディアや議員、県職OBがいるから、そしてその活動を継続するがゆえに、それを糾(ただ)そうとする人が渡瀬と竹内を蹴り続けるのである。
はっきり言って渡瀬と竹内の死体蹴りを続けさせているのは実は反斎藤の汚くて醜くて愚かな態度なのである。
自分の愛する人が殺害されたときに、その凶悪犯が銃殺されて死体になっても、その死体を蹴りたくなる感情を私は理解できる。つまり死体蹴りをする人間にはそれなりの理由があるということだし、その感情を私は理解できるということだ。
