オードリー・ヘップバーンの「マイ・フェア・レディ」は1964年アカデミー作品、監督、主演男優賞を受賞した作品です。いまだに国内でもミュージカル公演が行われて根強い人気があるのですが・・・
今見れば、これはDVモラハラ男の身勝手な願望を実現させた映画ではないか、と言うと身もふたもない感想になるのですが、衣装の豪華絢爛さには目を見張るものがあります。
物語は、街中で育ちの悪いガサツなイライザ(オードリーヘップバーン)を一流の淑女に数ヶ月でできるかどうかで、言語学者ヒギンズと友人のピカリング大佐が賭けをするというものです。賭けは数か月後の舞踏会で誰にも見抜かれることができないほどの淑女になっているかどうかで決まります。ヒギンズはイライザをレディに仕立て上げると宣言します。
そもそもこの話が持ち上がったのは花売り娘から花屋の店員になれればいいというくらいの気持ちで自分を教育してほしいとイライザのほうから持ち掛けるのですが、ヒギンズの態度を見てイライザは退散しようとします。それをヒギンズはチョコレートをエサにしてイライザを懐柔するのです。
ヒギンズは独身主義者ですが、その理由は女性に対する非常に強い偏見を抱き、女性を全否定し、蔑視していたからです。ですからイライザを淑女にするのもお茶の子さいさいだと思ったのです。
まともな英語を話せないイライザの発音訓練から始めるのですが、その前に身を清めるということでいやがるイライザを三人の女性の召使に命じ、無理やり入浴させます。イライザは必死の抵抗をするのですが力づくで入浴させられ、家中にイライザの泣き叫ぶ声が響き渡ります。この時からハラスメントめいたものを感じさせます。
目的の舞踏会では女王は皇太子とダンスをするように指名されるほどに完璧なふるまいをしたイライザを見て、賭けに勝ったヒギンズは、負けを認めたピカリングと歓喜しますが、その横でイライザは無視されました。
イライザは自分の存在を無視されたことに腹を立て、ヒギンズはその目的を達成したのだから、自分はもう用済みだと思います。そこで行く当ても生きる目的も見失ったイライザはその怒りと悲しさをヒギンズにぶつけ、去ろうとします。
ヒギンズはイライザに自分がどれほどの犠牲を払って淑女としての教育をしたかに触れ、感謝しないイライザに激怒し、彼女を「ドブネズミ」と呼び罵ります。イライザは「あなたは私を花売り娘として扱かった。でもピカリングは私を淑女として扱ってくれたので淑女になれた。レディと花売り娘の違いはどう振る舞うかにあるのではなく、どう扱われるかよ。」と言います。
この物語は個人的には後味の悪いものでした。男は実験材料として、礼儀を知らない若い女性を「レディ」に仕立て挙げるのです。思うようにならないときにはあらん限りの侮辱の言葉を浴びせます。「レディ」になった女性も、それが自分の意図した姿ではないのに勝手に仕立て上げられます。そしてどれほど暴言を浴びせられても暴力を受けても自分を無視しないでほしい、望むのはそれだけだと言います。いったん男と別れるのですが舞い戻ってきます。戻った女に男は再び侍女に対するような言葉をかけてエンドマークです。
これはDV男から離れられない女性の姿であり、女性を決して「弱い器」だとは扱っていない男の姿です。
そしてやはりエホバの証人の子供たちの姿とも重なります。周囲から「模範的(つまり“レディ”)」だとみなされていてもそれは自分の望んだ姿ではなく「作られた自分」です。そしてその子供たちをつなぎとめていたのは特権という“チョコレート”でした。また施した教育に対する感謝も強要され、それで文句を言うと親は激怒します。
また「お前の中には悪魔がいる」と暴言を浴びせられ、本来の自分を「全否定」された子供は「レディ、つまり「弱い器」として扱われたのではなくいつまでたっても「汚い花売り娘」として扱われていたのです。もし親が子供を“レディ”つまり「弱い器」として扱っていたならば、多くの女性は体罰を受けなくても立派な女性になっていたかと思うと残念でなりません。
イザベルがヒギンズの元に戻ってきたのも、我慢しながらも家族の縁を絶ってまでエホバの証人を辞められない2世の姿と重なります。