森喜朗氏の言葉を全肯定する気はないですが、全否定する気もありません。
男性だって「競争心」がないわけではありません。むしろスポーツというものが当初は男性中心が行なうものであったことを考えると「競争心」があるのは男性の方ではないかという気がしないでもありません。一昨年の「いだてん」では女性が陸上競技に出場することでに対し、昔は周囲の批判的な目があったということでした。古代オリンピックでも女子は参加できませんでした。
ですから「競争心」はむしろ男性の専売特許であるかのように見られますが、ところが実はそうでもないようなところがあります。
エホバの証人の社会について考えますと、元1世女性が書いていらっしゃるように、母親は「競うように」子供たちに鞭をしていたということです。また日本において開拓奉仕をする主婦が多かったのも、それは互いに「競う」かのように行なっていたのではないかと思われます。
子供の教育に熱心なのは、一般的には母親です。我が子の出世や己のメンツのために子供に勉強を強います。父親は子供の教育に相対的に無頓着です。
年端も行かず、物事の識別力のつかない幼少時から子供を伝道者にしてバプテスマを受けさせようとするのも、我が子が特権的立場についてほしいという母親のメンツもあったことでしょう。それは「子供の救い」という大義名分のもとに隠れた親の動機の場合もあるでしょう。
テレビのトーク番組で女性が多くいると盛り上がりますが、やはりわれ先に語ろうとします。さんまの「恋のから騒ぎ」の時にはいかに自分がふしだらな生活をしていたかを競うように話していましたし、「御殿」でも男性よりも女性の方がアピールは強いですし、話が長くなる人がいます。
「競争心が強いので会議が長くなる」というのはあながち間違った指摘ではありません。
森喜朗のなにがまちがっていたのか。
それは「女性が競争心が強い」とか「女性が参加すると会議が長くなる」と言った事ではないのです。女性ならではの着眼点を考慮することによって、それまでの男性視点での運用では気づかなかったことを話し合うために時間をかけることを疎んじる発言をしたからです。
つまり「会議が長くなる」としてもそれでよい実を生み出すことができるならばむしろ歓迎すべきだという認識を持っていなかったのです。これが最大の間違いなのです。良いものを生み出そうとする気がなかったところでしょう。
森氏は次のように言うべきでした。
「女性が大勢入ると男性には気づかない視点で話をするので会議は長くなるかもしれませんが、良いものを生み出すためにはそれも必要なことです。」
それを整理、差配するのが司会者の力量です。