「女の頭は男であり」というコリントの聖句が、エホバの証人の中では女性蔑視の感情を育てる危険性があることをまざまざと思い知らせます。
本来ならば「男の頭はキリストである」という言葉まで思いをはせ、キリストが弟子を大切に扱われたように、男性は女性を大切に扱わなければなりません。このコリントの聖句はあくまでも秩序の維持のための問題でしかないのです。
野球でいうならば、投手と捕手の違いでしょう。あるいは一番バッターと四番バッターの違いです。投手が捕手より優れているわけでもなく、四番バッターが一番バッターよりも優れているわけではないのです。実際ヘボピッチャーよりも名捕手のほうが評価が高く、チャンスを作る一番バッターがチャンスに弱い四番バッターよりも評価は高いのです。
しかし中には特権的立場に就いた人間の中には、女性を蔑視する屑のような人間がいます。結局その女性にチヤホヤされているうちは偽善的な笑顔を振りまいていたのですが、いざその立場を追われると女性が一斉に振り向かなくなった恨みがあるのでしょう。結局それが特権的立場を降格された恨みを持つ動機だったのかもしれません。しかし出ては打たれのヘボ投手や、打率は1割台の四番バッターが二軍に落とされて、それを逆恨みするような超驚異的バカはあとはプロ野球界などなくなってしまえと思うだけかもしれません。
女性蔑視の性向は特に母親を激しくなじることでも表れています。その言葉こそ、その人の本性というか、醜い本性をさらけ出しているだけです。でもこれ母親の責任です。おそらく息子がバプテスマを受けた時から、「兄弟」になったからと言って、親として人間に大切な教えるべきことを教えず、息子の「出世」を自慢していたのでしょう。母親の教育が間違っていたのです。鞭をするしか能のない母親で、心の教育を怠っていたのです。そういう母親は実際多くいました。ある意味母親はその報いを今受けているのです。
現役時代からおそらく女性を見下していたのでしょう。ブログでは自分で自分がどういう人間であるかを示しているのです。そういう人間なのです。そういう男なのです。醜さ全開です。女性を侮辱する言葉はそのまま自分に適用されるのです。何が醜いかを理解していても、それが自分に当てはまるとは思っていません。醜い自分と向き合う勇気もないのです。
自分の頭がキリストであると思えば、謙虚にもなれるはずなのですが、どうやら自分をキリストと思っているようですので、もう従うべき相手がいないのです。しかしその割には神をなじるのですから自分の父親をなじるようなものです。それこそサタンの姿です。