なぜやすやすと“降伏”しなかったのかー同胞からの粛清と“鬼畜”への恐怖(緑字追記) | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

沖縄戦においても、そして本土決戦が迫っていてもなぜ日本人は一般民衆も含めやすやすと降伏しなかったのでしょうか。

 

一つには降伏の意を示そうとするならば、同国人からの粛清があったという部分はあります。映画「沖縄決戦」では白旗を掲げて降伏しようとする民間人を軍人が射殺する場面があります。勿論映画ですが、このような描写はその事実がどこかにあったからです。

 

出撃した特攻隊員にとって生きて帰ってくることは、時に売国奴の汚名を着せられ、卑怯者のそしりが一生ついて回ります。生き残ったことを喜ぶのではなく上官から「おめおめと生きて帰って来たのか」といわれるのです。これらは生きて恥辱を被るよりも、潔く死んだほうが花も実もあるという日本人特有の考えがありますが、たとえ死んでも護国の鬼となって日本を守る気持ちもあるからです。死後の世界で、戦場で散った戦友に合わせる顔がないという思いもあります。それこそが愛国心だと思っています。それを責めることなどできるでしょうか。

 

エホバの証人の場合はどうでしょうか。もし組織から離れるならば、長老から非難され、仲間からも疎外されます。それはまるで同国人から撃たれるようなものなのです。切羽詰まった状況の中、それでも自分はたとえ組織にいても良心に恥じぬように生きていたいと思っている人もいることでしょう。友人や家族との絆を断ち切れないのは当然の感情です。そのような絆を断ち切ってまで「やれ覚醒しろ」とか、やれ「組織から出ろ」とかいう人がなんと多いことか(チコちゃんのナレっぽく)。

 

そのような人が一体何を提供できるのでしょうか。家族や友人との深い絆にとって変わるようなものをその人が提供できるのでしょうか。

 

奉仕者を盗撮して侮辱するようなヒビだらけの汚れた器でしかないのに、それよりももっと誠実な人たちの清い器の代わりなどできるのでしょうか。その汚れた器には「侮辱」という感染菌しかないのではありませんか?

 

無責任なことを言うべきはないのです。盗撮&中傷といった具合に道徳心も倫理観も常識ないのにも関わらず、何が「覚醒しましょう」でしょうか。

 

さらに、もし捕虜にでもなれば、“鬼畜米英”に何をされるかわからないという恐怖もありました。民間の女性はアメリカ人に凌辱を受けることを恐れていましたが、それらはすべて日本軍の喧伝によるものでした。確かにそのようなことが皆無であったわけではないのですが、それは戦争に伴う悲劇で何も英米に限ったことではないのです。ベルリンになだれ込んだソ連軍などはそれはそれは酷いものでした。戊辰戦争の時に薩長軍の暴虐を恐れた会津の女性たちの多くは自害しました。源義仲の入京の際には非道の限りを尽くしました。

 

さらに降伏をし相手の軍門に下るというのは、それまでの生き方を否定しなければならなかったのです(実際にこれがなされたのシベリア抑留の際のオルグ教育です。今はウイグルでなされているようですが)。日本人にとって、外国への降伏は、維新以来のすべての軍人の業績をもなきものにするものでした。それが玉音放送の「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」の言葉で言い表されています。

 

相手の言いなりになるくらいなら勝手知ったる知己に囲まれて、日本人として命を全うしたいと思う人たちもたくさんいたのです。日本人としての誇りは死によって全うされるという思いがしたのも、“降伏”による妥協を許さなかったのです。死より凌辱を拒みました。それは米英を“鬼畜”だとする教育がそうさせたのです

https://tanken.com/kitikubeiei.html

 

映画「沖縄決戦」でも、海岸でサッカーをして遊んでいる男女のカップルが登場するのですが、彼らが“ボール”として蹴っていたのは日本兵の頭蓋骨でした。ですから確かに一部では鬼畜の所業を示すアメリカ兵もいました。

 

アメリカは日本の軍国教育こそが日本人を「狂わせた」と判断し、それの徹底排除に乗り出しました。その中には天皇制の廃止も求める気運が本国にありました。しかしマッカーサーは日本人の精神的支柱である天皇を廃絶することは、戦後統治を難しくすると判断しました。人間宣言をしたとはいえ、日本人の尊崇を集めている天皇を廃止することは反感を招くと判断したのです。

 

アメリカの戦後統治は決して彼らが“鬼畜”ではないことを示しました。勿論敗戦国という立場ゆえに多くの苦渋がなかったわけではないのですが、日本人の全否定をしたわけではないのです。軍国教育は全否定しましたが、日本人そのものを全否定したわけではないのです。大和や伊号潜水艦を作った日本の造船技術を高く評価し、呉の造船所にタンカーの造船を依頼したのです。

 

ブログ活動をしている元エホバの証人の中には、それこそJW精神など全く見せることなくひたすら誹謗中傷侮辱を繰り返す人たちがいます。それはエホバの証人全否定の精神に似ています。エホバの証人全否定を口にする非信者がいましたが、それは頭蓋骨をサッカーボールで蹴っている姿が重なります。神を崇拝する彼らの信仰の対象まで侮辱するのは、天皇制を潰そうとしていることと重なるのです。それで相手を納得させることなどできるはずはないのに、それが理解できないのです。

 

非信者のみならず、元エホバの証人で、しかも長老までしていた人ですらも、エホバカとアホバという人がいます。信仰をしている人の崇敬の対象を侮辱しているのです。マッカーサーから学んだ方がいいでしょう。もちろん自分がそう思うのは自由です。しかしそれを公にしたり、その崇拝をやめさせようとするところに問題があるのです。マッカーサーも天皇崇拝をするようになったわけではないからです。ただ日本人を「尊重」したのです。

 

教理に対する分析にとどまらず、奉仕者を盗撮して侮辱したり、奉仕をしている信者をボウフラなどという元長老がいます。かつて「羊」と見なしてた信者をボウフラと呼ぶのは、元々「羊」などとは思っていなかった証拠です。そのような人などは、日本兵でありながら、日本兵の頭蓋骨を蹴って遊んでいるのと同じです。それこそまさに“鬼畜”の所業といっていいでしょう。様々な愚弄の言葉はそれを裏付けしています。JW精神などはみじんも培っていなかったのです。

 

それで現役の信者を「覚醒」させようなどと思うのは思い上がりも甚だしいのです。現役信者はそのような鬼畜になりたいなどとは思っていません。組織を離れるとそこまで堕落するのかと思うと、それこそサタンの餌食になると思っていますから、ますます頑なにさせるだけなのです。彼らは鬼畜になりたくないのです。そのような人から「離れなさい」というテモテに充てたパウロの命令に従うのです。自分を落としたくない、自分を堕落させたくない、自分は人の心を失いたくない、自分は人間を捨てたくない、自分はサタンになりたくないと思っているのです。組織に居続ける方が、そのような鬼畜の仲間になるよりましだと思っています。

 

組織にいる人たちを真に気付か、組織の命令に従うことが危険であることを示したいのであれば、、自らの人間性を高めなければなりません。組織を出ることによってより謙虚になったとか、より思い遣りを示すようになったとかを示すことができなければなりません。多くのブロガーがそれとは真逆のことをしています。「ボ~っと生きてんじゃねーよ」

 

エホバの証人を「思考停止」という人がいますが、何年も進歩せず誹謗中傷侮辱を繰り返す人の方が思考停止をしているように思えます。