特攻と奉仕 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

日本のエホバの証人の活動を理解するには、軍隊や戦時下における生活が参考になるでしょう。カルトを研究している学者の中にもエホバの証人の研究をしている人も多いかと思います。夏のオフ会にもそういう方が呼ばれているようですが、果たしてそれらの方々が第二次大戦までの日本の軍隊と比較して研究している人がいるのかどうか疑問です。カルト宗教特有のものとしてこの軍隊にも通じる「戦いの精神」を抜きにして考慮することはあり得ないわけで、それを持論の構築に加えないでいくら論を唱えたところでカルトなどの理解は表層的なものにしか過ぎないでしょう。まあ私が夏のオフ会に関心を持てない理由の一つです。おそらく権威に弱い多くのエホバの証人は、表層的な理解しかできない学者の話すことをただ感心してうなづいて聞いているだけの様子が見て取れるからです。

 

太平洋戦争末期、敗色濃厚の中、大本営は特攻作戦を思いつきそれを第一線にいる兵士たちに要求しました。自分たちは安全なところにいたままです。

 

“カミカゼ”は米兵から見て狂気の沙汰でした。しかし特攻隊員の手記や遺書を読むと彼らは決して狂ってはいませんでした。真剣に生と死を見つめ、自分の命をいかに用いるかを考えていました。家族愛、郷土愛を持つ普通の人間です。米兵ですらも、特攻以外にも日本兵の捨て身の精神には一定の敬意を示していたということもあります。

 

特攻機が、アメリカ艦船の豪雨とも思える艦砲射撃により、武運拙く撃墜される様子を見てどう思うでしょうか。片翼を失いキリモミしながら、海に散った機体を見てどう思うでしょうか。その時操縦席にいた彼らは何を考えていたのでしょうか。愛する人の写真をふところに入れ、故郷の光景を思いながら自分たちの死が故郷にいる愛する家族を救うためのものであることを信じていた飛行兵もいたはずです。

 

今なお命を保ち続けている当時の飛行機乗りが、海に散った戦友をどう思っているでしょうか。

 

大本営に対する感情を公にすることはないにしても、むちゃな作戦を思いついた司令部に対し複雑な思いでいることは確かでしょう。しかしながら戦場に散った仲間を見て、それをあざ笑うような人が果たしているでしょうか。もしそのような人がいたならどう思うでしょうか。その人がいくら戦後きれいごとを言ったとしてもかつての戦友を侮辱したりするのであるならば、もはやその人の人間性が問われるのは当然ではないでしょうか。戦友を愛すればこそ、戦前の教育をした国に対して憤るのであるならばわかります。しかしかつての戦友までも誹謗するでしょうか。バカにし侮辱するのでしょうか。

 

永遠のゼロでは特攻隊員を祖父に持つ若者が、若い男女の合コンで特攻をせせら笑う同年代の若者に対し忸怩たる思いを持つ場面が描かれています。しかしその若者たちは当時のことを知りません。それでもその有様は不愉快なものでした。知っていて侮辱するのであればそのような人の共感する人はほとんどいないでしょう。軽蔑の眼(まなこ)を向けられるだけなのです。

 

カート奉仕をしているエホバの証人を盗撮して侮辱するのはそういう類の人になるのです。なるほど非信者から見ればそれは狂気の沙汰のように見えるかもしれません。でも彼らは彼らで一生懸命なのです。ですからたとえ非信者でもエホバの証人の活動に対し全員が嫌だと思っているわけではないのです。

 

盗撮侮辱する人もかつては奉仕していたのではありませんか。カート奉仕は組織の提案です。それがなければ今でも一軒一軒訪ねていることでしょう。もし自分が現役時代にカート奉仕があればやはりそれをしていたのではありませんか。自分が覚醒したからといって、その人たちを見下す気持ちがわかりません。いったいどれだけ心が荒み、心が貧しいのでしょうか。だから繰り返し繰り返し言っているのです。そのような人は何ら覚醒などしていないのです。闇の中を歩んでいるのです。他の人に憐みも愛も持てない人です。心の著しく欠けた人なのです。「覚醒しましょう」と書いて「親切」みたいに聞こえるかもしれませんが、そのような人のする行為など全く親切ではないのです。愛など全くありません。全くないのです。

 

恥ずかしいのはカート奉仕をしている人のほうではなく奉仕者を盗撮し、しかもかつての“戦友”を侮辱している人たちです。盗撮するその醜い姿を盗撮すればどのような気持ちになるでしょうか。盗撮する姿のほうこそはるかに恥ずかしいのではありませんか。どこが客観的に見ているというのでしょうか。醜い姿をさらけ出す自分の姿を全く客観的に見ていません。

 

多くの現役エホバの証人は慎ましい生活をしながら自分のしたいことも我慢しているのです。それをわかっているのではありませんか。なのに言いますか。なのに侮辱しますか。なのにボウフラと呼びますか?

 

どれほど醜い心根を持つ人間かお判りでしょう。彼らはそのような人たちとは全く異なった心と信仰を抱いているのです。