「ネットは怖い」とはよく言われることです。ではどこがどうして怖いのですかと、と尋ねるとどう答えますか?炎上するとか、過熱するとか、でもそれらは現象にしかすぎません。その原因は何ですか?
答えの一つになるかもしれませんが、ネットにみられる特異な傾向として「一方的立場に立った全否定思考」が蔓延しているからです。言いたいことを言える環境は自由なようでありますが、この二元論を強化します。リアルでの人間関係が良好であるのは、言いたいことは言わないということをエチケットとしてわきまえているからです。もし皆が皆言いたいことを言うならば、コミュニティは崩壊します。もちろん道義的に言うべきことを言えないというのは不健全な環境ですし、時には言わねばならないこともあります。ですが日常生活やその後の互いの関係に支障が生じないようにするのも、お互いに「面が割れている」からでしょう。しかしネットは違います。ほとんどが匿名の言葉ですから、それだけで言いたいことが言いやすいのです。もし個人が特定され、職場も特定され、ネットでの酷い言葉が職場に通報されると、職を失うことになるということになれば自制心も働くものですが、そうならないので自制心に歯止めがかからないのです。
これは宗教問題だけではないのです。政治問題、人種問題、国籍問題などもみなそうです。ヘイトスピーチもみな全否定思考者が示す牙です。全否定思考がいかに恐ろしいものであるか銘記すべきなのです。全否定思考が平和を乱し、争いを引き起こし、社会生活を営む上で障害になり、周囲から疎まれ、世に害悪をももたらすものであることはもう明らかなのです。そういう人が例えば相模原の福祉施設で大量虐殺をしてもなお反省の色を示さず、自分の正当性を主張する人になっていくのです。彼は自分がことをなすにさいし、非常に強い確信をもって実行した重度障碍者全否定思考者です。
学校や職場のネットでのイジメなどは、全否定思考が主流です。だからターゲットになった人たちが心を病むのです。全否定思考が時に人を死に至らしめることがあることを考えると非常に有害ですし、そういう思考を持つ人は自身の中にあるモンスターを侮っているといえるでしょう。
私が5年前にアメブロでのそういう様子を見て「カルトからカルトへ」と描写したのは、そういう「確信犯」たちを見てのことでした。だから決して反省はしないでしょうし、また反省をしない人に謝罪を要求しても表面的なものであることは明白なので、私自身は謝罪を要求したことは全くありませんでした。無意味なことだからです。
それでもそういった人たちの主旨や動機には理解をしながらも(全否定思考者には勘違いしている人もいますが、この意味で私はその人たちを全否定していません)、方法論における想像力の欠如に異議を申し上げてきました。
また私がこういう主張をすると、「全否定思考を全否定するのは矛盾だ」とまで身勝手なことを言いう人がいます。そもそも全否定思考者だからそういうことを言うのです。道理を客観的に判断する人はそういうことを言いません。そういう論理は詭弁というもので、己はしでかしたことに対する罪深さなど毛頭顧みることなく、時には「私にそういうことをさせたのはあなたが悪いからだ。」というようなことまで言い出す始末です。身勝手な犯罪者がよく使う言葉です。
それは凶悪犯罪を犯した人が、「自分を死刑にするのは間違っている」という身勝手な論理と同じなのです。「教誨師」で、凶悪犯罪を犯した死刑囚が、教誨師に向かって「国が人を殺してもいいのかよ。」とうそぶく姿と同じなのです。身勝手な犯罪を犯すものは身勝手な弁明をするのです。自己愛の塊だからです。国が死刑判決を下すのは双方の言い分を十分に聞き、また裁判員など一般人の見識、被害者の処罰感情なども考慮したうえで下すものです。嗜虐的な動機で、罪もない人を殺害するのとでは全く異なるものです。ネットだったら相手の心を病ませるほど攻撃してよいと思うのも、施設で大量虐殺を行った人間とさして変わりません。これは由々しき問題です。一切の反省もなく、自分の犯した過ちや愚劣で卑怯な行動の程度も理解できないのであり、その意味では死刑を潔く受け入れたオウム犯よりも醜いものです。
ゲリラ戦術はネットでは断じて避けなければならないものなのです。ネットだからこそ避けねばならないのです。ネットが全否定思考を養うからです。ゲリラ戦術はネットでのハラスメントを肯定し、全否定思考を強化します。それを良しとする人がネチケットを犯す人なのです。平和主義者というものは決してゲリラ戦術を使いません。決してです!!それはむしろテロリストの精神です。ネットでのゲリラ戦術肯定は、今世間で盛んに問題視されているネットにおける誹謗中傷による「殺人」などを肯定しているのです。相手を病まそうとしている点で傷害罪を起こそうとしているのです。相手を病ませたことを「戦績」だと思っているかのようです。それは気に食わない相手をブログから撤退させること=IDの殺害=を戦果だと思っているのです。実に恐ろしい精神です。リアルでは行えないので“仮装殺人”をするのです。
しかしそうのような社会倫理にもとる行為でも、「刷り込み現象」が生じるならば、それを「間違い」だとは思わず、例えば私のこういった指摘に対して憤慨するのです。自分を覚醒させてくれた、その人にとっての「麻原」への批判に我慢ならないのです。エホバの証人系SNSでは特にそうです。道理なんぞ吹っ飛ぶのです。
ただこの全否定思考をもたらす別の要因として、同時に生じる目に見えない「敵」に対する恐怖心が大いに影響していることはあるでしょう。恐怖心が極端な行動をとる動機付けにもなるのです。