ありふれた日常を支えてくださるすべての方々に感謝するのであるならば…
仲間の信者たちだけに行き渡るような寄付の仕方はそれこそ何のために宗教をしているのかが問われるかもしれない。どこに寄付をするかはよく考えなければならない。
各マスコミや諸団体もまるで寄付額を競っているような報告もあまり好きではないがそれでもそれは利害関係がある人たちを優先するものではない。
遠くにいる人たちは往復の交通費を考えた場合は、その分を金銭に換算したほうがいいかもしれない。
被災地にボランティアで赴くのは、それで被災者たちが、見知らぬ人たちに支えられているということを実感できるし、それで心が少しでも強められるならばその働きは大きい。そこで何ができるか、どれだけ行なったか、などは関係ない。もともと一人一人の物理的働きは大したことではない。大切なのは気遣ってもらっているという目に見える証拠だ。悲しみを共有することで萎えた心を知ってもらうことだ。
見知らぬ人が自分たちを思ってくれているというのはボランティアの姿を見るだけでよい。
愛を示す機会を作ることも愛だ。非常時には日ごろの思いはいったん脇へ置くべきだろう。
人に感謝すること、人から感謝をされること、いずれも貴重な経験だと思う。被災者の感謝の気持ちは、ボランティアの心をも動かし、ボランティアが逆に感謝を示すこともある。
助けることとはそういうものかもしれない。