箴言25:20,21(口語訳)
心の痛める人の前で歌をうたうのは、
寒い日に着物を脱ぐようであり、
また傷の上に酢をそそぐようだ。
過酷な試練にあっている人の前で、その人たちの心を考慮せず、能天気にふるまうことは不謹慎だ、と戒める言葉である。
このような聖句を知らずとも、そのような認識を持っている人が多いのは各自の心に良心という律法が書き込まれているだからだろう。
ところが何事も度が過ぎるということはありがちで、災害の時の自粛ムードというのがそれにあたる。いわゆる『不謹慎狩り』と呼ばれるものである。
災害時の集会開催に対し、いかにもそれが『不謹慎である』とばかり、怒りを感じるなどというのもそれにあたるのではないかと思う。確かにバカ騒ぎをしたりするのであるならばそうだろうが、そのような場所での集会の様子はおおよその見当くらいは付くはずだ。互いに慰め合い、祈りをささげ、心をいやす様子を目に浮かべる想像力はないのだろうか。あくまでもマイナスイメージの想像力でしかないとするならば、『不謹慎狩り』ではないか。
心の傷ついたエホバの証人が仲良くしているのがどうしても腹が立ち、苛立ち、どうしてもそれをぶっ壊したいと思っているのだろうか。
エホバの証人の行なう援助でもしエホバの証人になる人が出てきたとしてもそれは自己責任だ。援助を受けたとしても、情報を得る機会はいくらでもある。
JW.ORGを見ることはほとんど全くないが久しぶりに覗いてみた。今回の地震に関して少なくとも日本語サイトでは報告してほしいところだがやはりなかった。しかし地域ニュースでの日本の項目を見るならば、2年前の広島の水害におけるエホバの証人のボランティアの様子がわずかではあったが報告されていた。泥を土嚢に懸命に詰める人たちを非難する人などいるのだろうか。その姿は忌々しく映るのだろうか。
厳格な情報統制により情報に接していないJWもいるだろうし、たとえ情報に接したとしても『それはすべて背教者のウソ』だとマイコンされている人たちが、それでも純粋に人を助けたいと思って、している行為を批判する気は私にはない。
実際周囲の人たちを助ける活動が報告され、もしそれが集会などで組織されているとしたら集会の意義はある。実際熊本での集会で何が行われているか知らず、消極的な想像力を掻き立て勝手に怒りを発するのはどう見ても偏った見方としか思えない。
そこに人間愛はあるのだろうか。
こういうことを書くと、私をどうしても貶めたくてたまらない人は「組織の回し者だ」という人もいるだろうがこの際その種の批判は願い下げたい。