道理にかなった実際的な知恵 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

どの出版物か忘れましたが、印象に残っている言葉があります。


「聖書を学ぶことによって、良き父、良き母、良き夫、良き妻になることができます。」


前に書いた「家族生活を幸福なものにする」という書籍はその面で実際的な知恵が数多くあったと思います。


私はもともと宗教など、胡散臭いものだと思っていましたし、キリスト教が外国の宗教という偏見は特にありませんでしたが、いわゆる「聖人」の絵画などで頭の上に「輪っか」がかかってるのを見ると「アホクサ」と思ってました。


宗教論争など全く興味もなく、勝手にやってろと思っていました。何千年も前に何が起こったかなど知る由もないですし、そんなことで論争しているのがばかげていると思っていました。


仏教にしても十数分お経を読むだけ多額のお布施をもらう姿が、子供心に何とも非生産的行為だと思いましたし、そういうのをありがたる気持ちもわかりませんでした。


信長が、叡山焼き打ちをした時に「僧侶のくせに治外法権的に武力をもち、しかも反抗的な精神を示すなど道に反する行為だ。成敗する。」といったのもあながちわからないでもないのです。


ですから宗教に対して持っていたイメージは概して良いものではありませんでした。宗教心などはあまりない方だったと思います。


(たぶんだからこそ組織内の特権にこだわって大騒ぎしている人を見て印象が良くないと感じるのもそこにあるんだと思います。「宗教してるんでしょ?人の道説いてたんでしょ?」と思いますし、それは若いころに「宗教家」に対して持った感情そのままなんですね。どっちもどっちじゃんかと思うわけですよ。)


でも聖書が神の言葉なら難しい神学論争で意見を戦わせることに腐心するよりも、実際生活を導き幸福なものにならなければならないと思っていました。


姉妹たちが主婦の方々と研究をしていた時に、その配偶者に会うことを私は結構率先していたと思います。

中にはそれで研究をした方もいます。


そのようなときにご主人に私が話していたのは「私は聖書は人を幸福にするためのものだと思います。聖書の言葉で家族の中の諸問題を見る目が変わり、思いやりと優しさを培うことができると固く信じています。ですから聖書を学んで夫婦仲が悪くなることは、神の御意志では決してないと思います。もし奥さんが聖書を学ぶことによってご夫婦の中に何らかの溝が生じるようなことがあるとするならが、私は自分が伝道者であること、そして今こうしてご主人と研究することすら後悔すると思います。聖書を学ぶ前に比べて家族のきずなが深まるのであれば、たとえご主人が信仰心を持たれなくても良いと思っています。」ということでした。


そして子供に対する体罰に関しても、会衆内の一部の人のような感情的になる鞭は、神を恨む結果にしかならないことも伝えていました。


そういう私の司会を見て、「桶兄弟のやり方は生ぬるい。」といった姉妹たちもいました。そのことを長老に進言する人もいて、長老はそれを意識したプログラムを扱いました。


いずれも愚かな人たちだと思っていました。この人たちは別にJWでなくても良かった人なんだろうと思いました。その宗教でもカンカンになっていわゆる熱心な信徒になっていたことでしょう。


何が生ぬるいのかと思いました。確かに子供を牛馬のごとく親の言いなりに服従させる点では生ぬるいかもしれません。でもそれで強制的に信仰心を培うことなど、そもそも神の御前に会って正しい認識を持っているとは思えませんでした。

そういう子どもを神の御前の育てあげるなんて、神に対して恥ずかしくないのかと思いました。


大体暴力で服従させようとするのは知能の低いものがすると思っていました。

クラスの勉強ができないものがすぐに暴力をふるうのと同じだと思いました。


これは自分がもしこういう育てられた方をされたらウソの上手い子供になっていたか、それとも親を憎むか、それともむちゃくちゃ熱心な子供になった挙句人格崩壊していたんじゃないかなと思ったからです。


どうも性格的に「みんなでワ~」となるのが嫌だったんですよ。


で、1970~80年代の組織の出版物にはそういう人間関係において平衡の取れた見方ができるように教えていました。ですから、悪いのはそういうのを拡大解釈してタルムードのように細かい規則を作って押し付けた長老や巡回そして特開者や、ベテラン姉妹だと思います。


そのあたりが日本と外国の違いなのかもしれません。とにかく人の目を気にし、人の序列ばかりを気にする日本人社会において、それを利用した日本支部上層部の責任は非常に大きいと思いますね。


日本支部が道理にかなった見方を培うのを妨げる土壌を作っていたと思います。結局世界本部にいい顔を見せたかったとしか思えないですね。神ではなく人間の奴隷に進んでなろうとしたのでしょう。