悼む | らくがき

らくがき

書きたいときにつらつらと。
大人向け。

1月から3月は多くの生物にとって試練の時期のように感じられる。寒暖の差が大きく負担のかかるこの時期を乗り越えたらまた一年生き抜けると思う。


私の祖母は二月末、父は一月末に逝去してるからそう思うのかもね。(今年ではなく随分前のことである)今日はなんとなく父のことを振り返ってみたいと思う。


父が亡くなった知らせをLINEで受けたのは夕方のことで、私は羽田空港にいた。仕事で旭川に前泊移動することになっていた。保安検査を通って、レストランで夕飯にカレーを食べていた。その知らせを見て、カレーの味がしなくなって、ごめんなさいと言って生まれて初めてカレーを残した。


父とはすでに離れて暮らしていた。仔細があり両親は子供が成人してから別居、私は母と生活していた。私の知る父は競馬、酒、煙草、野球が好きで、よく働き、教育を重んじ、怒りっぽく、説教が長かった。仕事への姿勢は尊敬しているが、金銭のやりくりの杜撰さと酒の飲み方に関しては尊敬していない。


さて空港にいた私はそのまま旭川行きの便に乗った。機内モードにして頭の中が真っ白なまま宿泊先に着いて、母に連絡した。

その晩は一人で良かった。そばに家族がいたら私は泣けなかったと思う。


翌朝、旭川で先方に事情を説明して必要な書類を手に入れ、旭川空港でひたすら業務を進めた。一週間くらい忌引きで休むので一時的に業務の引き継ぎを大至急進める必要があったためである。

東京に戻ってからはそれほど忙しくはなく部屋の片付けや手続きなどは母を中心に家族で分担できたが、片付けはきつかった。


忌引き中は毎日何かをするわけではなかったので空いている日は実家で壁紙を貼り替えていた。大きな壁紙を綺麗に貼るのは意外と大変で、とにかく無心に壁紙を貼って、二階の壁は真っ白になった。


当時、救いになったのは、最後に父と顔を合わせたのが喧嘩別れとかではなくて、私から最後に伝えた言葉が「ありがとう」だったことだ。だから心残りはほとんどなかった。そして親が先にこの世を去って子に「去る」ということを教えた。だからそれはとても自然なことで、私はとても恵まれていたと思う。


生物の早すぎる死というのはつらい。それに生物の本能として、生存が脅かされれば冷静でいることは難しい。でも多少の時間差はあれどすべての生物はいつか生を終えるわけで、目に入る生物全部がそういう意味では仲間だと感じる。そして、せっかくなのだから生を全うしようと私は思う。