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 翌日の午前中、診察の合間を縫って、清和院長は電話をかけた。

「はい、小杉です」

 受話器の向こうから女性の声が聞こえた。

「あ、私、『中崎医院』の中崎清和です」

「まあ! 中崎先生! お久し振りでございます! お元気でいらっしゃいますか?」

 小杉さおりの声が一気に華やいだ調子になった。

「ええ、元気ですよ。……ところで、田村くん、じゃなくて……さおりくん……君のとこ、お子さんは幾つになったかな?」

「上の子は八つで、下の子は六つです」

「そうか……それじゃあさおりくんは、まだ全然働きに出るようなあれじゃないよねえ?」

「ええ、せめて下の子が五年生くらいになるまでは専業主婦を続けるつもりですが……あの、中崎先生、何かありました?」

「実はうちの中崎内科で看護師の欠員が生じてね。さおりくんに是非来てもらいたいと思ったんだが……」

「うわー……残念です……中崎先生にお声を掛けて戴いてとても嬉しいんですけど」

 さおりは心底残念そうに言った。

「それで先生、他に誰か心当たりとかおありですか?」

「うん、いやー、知り合いのドクターに当たってみようかなとは思ってるんだが……」

「それなら是非、わたしにお任せ下さい。結構今でもツテがありますから、何人か御紹介できると思いますので、後は先生ご自身の目で確かめて戴ければ」

「そうしてもらえるかね? いやあ、助かるな。さすがさおりくんは頼りになる」

「では、早速当たってみますので、後ほど御連絡いたします」

「よろしく」

 受話器を置いた清和は、これで万事解決と言わんばかりにうんうんと頷いた。

「今の人、どういうお知り合い?」

 側でパソコンにカルテのデータを打ち込んでいた沙耶が尋ねた。

「私が前にバイトで助っ人に行ったことがある病院でナース長をしていた人だ。私のお気に入りの看護師だよ」

「へえ~……」

 沙耶は意味ありげに目を細めた。

「和歌子さんには黙っててあげますね」

 沙耶は日常的に、祖父の清和のことは「おじいちゃん」と呼ぶが、祖母・和歌子のことは絶対に「おばあちゃん」とは呼ばないのだ。

「いやいや、和歌子も知ってるよ。彼女もさおりくんが来てくれたら喜んだだろうにな」

「あらそう……」

 沙耶はドアを開けて次の患者を呼んだ。

「○○さん、どうぞー」

 

 

 

 夕方、外来の診察がちょうど途切れた頃、小杉さおりから電話がかかってきた。

「中崎先生、御依頼の件ですが、看護師数名をピックアップいたしまして、その中からわたしの独断で二名にまで絞り込みました」

「おっ、そうかね。流石さおりくん、仕事が早いねえ!」

「ですが、先生……実は少々問題がありまして……」

「問題?」

 首を傾げる清和の横で沙耶が聞き耳を立てている。

「その最終選考に残った二人というのが、実は、どちらも先生のお孫さんのお友達だそうで……」

「ちょっと待って……」

 清和は沙耶を見た。

「お前の友達に看護師っているか?」

「あ……」

 沙耶はすぐにぴんと来た。

「ひょっとして、金井美沙(かない・みさ)ちゃんと小野衣(おの・ころも)ちゃんですか?」

「そうそう、その二人です」

 沙耶の声が聞こえたらしく、さおりはすぐに肯定した。

「あちゃー……」

 清和と沙耶は顔を見合わせた。

「実は今、その二人と『ラ・パンキー』にいるんですけど」

 「ラ・パンキー(La Punky)」とは、中崎医院のすぐ近くにある喫茶店だ。マスターが静岡県出身の金原(きんぱら)さん、だから「ラ・パンキー」なのだ。

「おお、そうかね、じゃあ二人とも連れて来てもらえないかね」

 

 

「美沙ちゃんっ! 衣ちゃんっ!」

 中崎医院の待合室に入って来た旧友の姿を見た途端に沙耶は涙が止まらなくなり、泣きじゃくりながら駆け寄って二人に抱き付いた。

「わっ、沙耶ちゃん、熱烈大歓迎だね!」

 金井美沙はふくよかな体で嬉しそうにぎゅうっと抱き締め返したが、小野衣はやや心配げに沙耶の背中を抱きながら顔を覗き込んだ。卒業式の時ですらこんなに大泣きする沙耶を見たことがなかったからだ。

「あ……ごめん……」

 自分でも当惑したように、沙耶は二人から離れて涙を押し拭った。

「おお、子供さんも連れてきたのか」

 清和が小杉さおりの後ろに立つ男の子と女の子に微笑みかけた。

「息子の太一と娘の春菜です」

「こんにちはー!」

 二人の子供は元気よくぺこりとお辞儀をした。

「それじゃあママ、しばらくお仕事の話をするから、二人ともここでテレビでも見ててね」

「はーい」

 子供たちは並んで椅子に座り、側に置いてあったリモコンで透かさずチャンネルを切り換えていった。

 五人は診察室に入り、清和と沙耶はデスクの前の椅子に、さおりたちは診察台の上に腰を降ろした。

「今回の募集は一名なんですよね……」

 さおりが困ったように言った。

「この二人は人柄も看護師としての能力も甲乙付けがたいばかりでなく、両方ともお孫さんのお友達でもあるという……本当に厳しい選択を迫られることになってしまいました……」

「それなら、今回はわたし、辞退します」

 そう言ったのは衣だった。

「今勤めている病院そのものには別に不満はないんです。ただ、そこの院長が貧乳好きのセクハラオヤジでして……事ある毎にわたしの無い胸を触りに来るので迷惑しておりまして……」

 非常に細い体付きの衣は俯いた。

「それさえ我慢すればまあ、何とか……それに比べて美沙ちゃんは『××病院』が閉鎖になってしまって失業状態ですから……」

「だめよ、衣ちゃん、身の危険を冒してまでそんなとこにいることないわ。大丈夫、わたしはまだ経済的にそんなに切羽詰ってるわけじゃないから」

 美沙が少しでも上体を動かすと、豊かなバストが目立った。

「ならば二人とも雇うことにしましょう」

 尾梶安男が現れた。今日は『何でも屋福善商店』の社長らしく、パリっとスーツを着用していた。

「二人にはまず、株式会社『福善』と契約を結び、うちからの派遣という形で中崎医院に勤務してもらうことにしましょう。給与は当然『福善』から支払われる。中崎医院には差し当たり、当初支払う筈だった一人分の給与の額をうちへ入金してもらうこととして……その差額をどうするかは、まあ、追い追い対処することにしましょう」

 安男は恋人を失ってまだ一週間も経過していないのに、それをほとんど噯(おくび)にも出さないのは立派と言えた。

「う~む……確かに……いかに小さなクリニックとは言え、やはり看護師は二人体制の方が助かるが……何と言っても先立つものの問題がなあ……」

 清和は腕組みして唸った。

「追い追い対処するって言っても、多分、いつまで経ってもうちは二人分払えるようにはならないんじゃないかな……」

「まあ、『福善』には強力なスポンサーも付いてますからね、そこから出してもらうという手もありますし」

 そこまで話した安男は、力強く男っぽい笑みを浮かべた。

「それに清和先生、彼女たち、二人とも欲しいでしょう?」

「欲しいな」

 清和も即答する。

「や、やあん……殿方お二人に『欲しい!』なんて言われるとドキドキしてしまいますわあ……!」

 美沙はふくよかな体をくねらせた。皆は朗らかに笑った。

「それじゃあ、美沙くんの方はもう明日から来れるのかな?」

 と、清和院長。

「はい、勿論です!」

 童顔の美沙がこっくりと頷いた。

「衣くんの方は『××病院』退職等の諸々の手続きが済んでからと言うことで」

「よろしくお願いします」

「わあ……夢みたい! 美沙ちゃんと衣ちゃんと一緒に仕事ができるなんて……!」

 沙耶はさっきからずっと涙を拭くためにハンカチが手放せなくなっていた。