私が感じているものは“欠乏”かも知れません。
“富”とは全く正反対の意味です。
本当に“欠乏”なのか、精査に入ろうと思います。
精査するには理由が有ります。
「そうであっては都合が悪いから、そうではない証拠を得る為」ではありません。
その逆で、「そうである方が都合が良いから、そうである証拠を得る為」なのです。
「求めるものを直接感じ得る」という事は、基本的にと言うか原理的には無い事です。
私は“富”を感じる事を求めました。
それはつまり、「私は“富”ではないから」です。
“富”を求めている時は、その逆を感じているのです。
今回の場合、“欠乏”がそれに当たる可能性が有ります。
私のスピリチュアルは、「反対概念を通して望むものを得る」という性質が有ります。
これが“欠乏”を「そうである方が都合が良い」という姿勢で精査する理由です。
“富”の反対概念が本当に“欠乏”で、今感じているものが本当に“欠乏”であるなら、私は本質的には“富”を得ているも同然だからです。
私は嬉々として“欠乏”を迎え入れ、その後に出て来るであろうものを関心を持って待ちます。
“欠乏”に対して思う事はもう1つ有ります。
「私を表現する言葉として、“欠乏”は相応しくない」という事です。
どの道感じているものが“欠乏”だったなら、“欠乏”はその形を保ち続ける事は出来ません。
その逆に転じる以外に無いでしょう。
それが“富”そのものでなくても、それを聞いて私が“富”を感じる様な言葉であればそれで良いのです。
“充足”や“豊富”と言った言葉がそれに当たると思いますが、それらを感じる事が出来て、尚且つそれで「これが私の求めた“富”だ」と分かった時、私は“富”となるでしょう。