どうしてお金が要らないのか? | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

“貧乏”という言葉がどうしても私の本質と相性が良くない感じがします。

 

まだ「お金は要らない」と言った方が近いと思います。

 

それも正確ではないのですが、「“死”を示していたと思っていたら“生”だった」という例もあるので、とにかく一旦は“貧乏”から離れてみたいと思います。

 

改めて感じているものに「お金は要らない」と言ってみます。

 

やはり、“貧乏”ほどには乱れた反応を示しません。

 

ピッタリ一致しないところが気になりますが、こちらの線で方向転換するのは悪い選択ではないでしょう。

 

 

 

即座に「どうしてお金が要らないのか?」という疑問が浮かびます。

 

確かにこの疑問からでも充分に納得出来る答えは得られそうではあります。

 

私も薄々はお金自体を欲しがっている様子があまり無い事に感付いていましたが、それを言ってしまう事が憚られていました。

 

「その理由を突っ込まれたら答えられないから」です。

 

いや、それも理由の一つでしょうが、何か大きな力に反旗を翻すような気がしてその勇気が無いから、あるいはお金に頼らない生き方をする事に覚悟が持てないからなのかも知れません。

 

そこに答えに至る道が有るとしたら、思ったよりも覚悟が必要になるでしょう。

 

 

 

今の私の意識レベルはお金よりも下になっているのでしょう。

 

しかし、本来の私はお金よりも上に居るはずです。

 

「お金は要らない」からその根拠を内に見付けた時、お金をどう扱うべきなのかが見えるかも知れません。

 

その言葉に対する反応は在ります。

 

鳩尾に空気の栓が詰まっているような感じです。

 

それ以外は穏やかなものです。

 

「私は“貧乏”である」のと、「私はお金は要らない」のとでは、目に見える形は同じでもその中身は雲泥の差です。

 

「この両者ならどちらが私に相応しいのか」も明白です。

 

長年薄々感じていた「お金は要らない」に、今回の問題を託してみます。