会いたい | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

…惜しい。

「姿を見たい」がより近いかも知れない。

どちらにしろ、やはり「存在それ自体が目的」なんでしょうね。

私には何が何やら解りません。



刈谷は「行きたい」でした。

「場所自体が目的だった」と言えます。

ただ行くだけではなくて、何処かに勤める必要があった。

それは、その勤め先で会うべき人に会う為。

今だからそう言えますが、Iさんに会うまでは「刈谷に行って、そこで働く」という事以外は何も解りませんでした。

ただ、薄々は女性との出会いを求めていたような気配は感じていましたね。

そして、女性と出会う為の方法は幾らもあったはずなのに、「その必要は無い。…と言うよりもそれでは駄目だ」と強く感じていました。

よりによって、最適解が最も避けていた働く事の中にあったのは何とも皮肉な話です。

…そう。

薄々感じている事です。

そこに答えが、私の正解があります。



今何を薄々感じているか?

やっぱり結婚なのです。

【人が結婚と呼んでいるものの本質】ですね。

…とは言っても、「Iさんに会いに行っているだけで、仕事をしに行っているわけではない」のと同じく、「一緒に居るだけで籍を入れているわけではない」…みたいな。

人間をやめれば仕事も結婚も無いわけで。




そうですね。

この「会いたい(姿を見たい)」と言っているような感覚を突き詰めたら良いのでしょうか。