自分に素直になればなる程、自分に合わないと感じる事に対しての忍耐や我慢が辛くなります。
稲田も仕事中はずっと、「いい加減に今の仕事を、いや工場で働く事を、もっと言えば労働者を辞めたい。それくらいつまらない」と頭の中でボヤいております。
そこでふと、「俺は潜在意識を楽しいと感じているのだろうか?」…という問いが浮かびました。
潜在意識で問われるのは本音のみです。
それが例え潜在意識に対してでも例外はありません。
つまらないと感じているなら、その感情を認めなくてはなりません。
「唯一の依りどころである潜在意識(自分自身)すらつまらなかったら、この世で一体何を楽しめるのか」と恐れながらも、努めて素直に問いに対する反応を感じました。
その反応は、「楽しくない」と「面白い」を同時に訴えておりました。
「楽しくはないが、面白いってどういう事なんだろうか?」とその反応を“面白がって感じている自分”に気付いた時、「俺が求めていたのは“楽しいと感じる事”ではなくて、“面白いと感じる事”だったのだ」と得心しました。
稲田の価値基準は「楽しいかどうか」ではなくて、「面白いかどうか」であったのです。
これは思ってもみなかった事でした。
稲田の中では楽しいと面白いは似ている様で明確に違っていて、「同じドの音でも音階が違う」と言った様な、そんなニュアンスなのです。
「唯一の依りどころである潜在意識(自分自身)すらつまらなかったら、この世で一体何を楽しめるのか」
この恐れに対しては、「この世で楽しい事は何一つ無い。しかし、それは求めていたものではないので何の関係も無い」という解答が示されました。
この解答は福音であり、救いです。
「面白いか面白くないか」の自身の基準によって、改めて今の現状を見詰め直せば、「面白いとは言えないが、面白くないと断ずる事も出来ない」というニュートラルな位置に居る事が解りました。
後は、「自分にとって何が面白く感じるのか」だけを追求して行けば良いのでしょう。
道理で、楽しい事を探しても見付からなかったわけです。