本質と現象の狭間 | 魂の世界に生きる

魂の世界に生きる

私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

稲田は本質を重んじるあまり、現象を蔑ろにしていました。

しかし、実際は本質よりも現象に人を動かす作用が働いている(現象に重きが置かれている)社会である事を認めなくてはならないでしょう。

稲田には「人は自分を偽る(飾る)為にお金を使う」という考えがあって、それを受け容れる事を良しとせず、また他人が現象を追い求める様を見て許せない気持ちがありました。

「何故本質を見ないで現象ばかりを追い求めるのか」…と。

でもそれ(現象)こそが飛行機を飛ばす為の浮力であるとしたら、認識を改めなければなりません。

そして、自分の中にも現象を求める気持ちが在る事も、同時に認める事にしましょう。

…となると、本質と現象の狭間に人を動かす作用が在るのかも知れませんね。

本質と現象のどちらにも依らないが、しかしどちらも必要となる狭間です。

地球と月の間で作用している引力みたいなものでしょうか。



「力を合わせる」という言葉がありますね。

それは「2つの力を1つにする」という意味でも解釈出来るのですが、もう1つ考え方があります。

赤と青の2枚の紙がありますでしょ?

その2枚を重ねます。

そしたら、その紙と紙の間に「合わさった部分」が出来ますね。

赤は赤として、青は青としてそのまま在りながら、合わさった部分としてある意味1つになります。

「赤でも青でもない紫」にはならない。

稲田と貴方が別々に在りながら、お互いの領分に干渉する事も無く、1つになるのです。

自分の価値観で他人の価値観を侵す事も無く、他人の価値観で自分の価値観を侵す事も無く、分離した状態を保ったままの統合が起こるのです。

紙と紙が合わさった部分を統合と呼ぶのは些か強引ではありますけども。

稲田はすっかり、他人を浮力扱いですよ。

自分を飛ばす為の力学的作用としてしか見なしていません。

でも、侮辱もしていないし、見下してもいませんからね。

地球の自転や公転の様に、当然ではあるけどもよくよく考えたらとてつもなく凄いってニュアンスで観てますからね。