幼い子供や動物を見て純粋さを感じ、その純粋さに羨望と敬意を感じる事があります。
「この存在の○○なところが純粋だ」と特定出来ないのですが、確かに彼らからは純粋さを感じます。
何処に感じるかと言えば、「その存在そのもの」と言う他ありません。
何処かの部分だけが純粋なのではなく、存在が丸ごと純粋なのです。
彼らに純粋さを見た時、それは彼らを「純粋な“子供”」でも「純粋な“動物”」でもなく、「純粋な“存在”」として見たのかも知れません。
この「存在する感覚」は、子供の頃と大人の今と比較しても些かも変化していません。
覚えている限りで構いませんので、貴方が小さかった頃を思い出してください。
貴方は「自分はそこに居た」と言う感覚を思い出せると思いますが、その感覚は貴方が今感じている「自分はここに居る」と言う感覚と全く同じものです。
その「存在する感覚」は貴方も稲田も、幼い頃から何一つ変わっていません。
これがスピリチュアルで「本当の自分」「在るがままの自分」と呼ばれるものです。
「この存在する感覚は、何処から何処までが稲田で、何処から何処までが貴方なのか?」…と言いますと、それは解りません。
しかし、稲田が感じている「存在する感覚」を否定していると、稲田は貴方を心の底から肯定出来ませんし、貴方がいくら稲田を肯定してくれても、稲田がそれを肯定として受け取る事が出来ない事だけは、間違いありません。
場合によっては、貴方は褒めたつもりで言った事を、稲田は皮肉やお世辞と捉えて貴方を好ましくない存在だと感じ、嫌悪するかも知れません。
仮にその様な事になった場合、原因は全て稲田にあります。
正確には、「稲田と言う個人が持つ諸性質が原因」なのではなく、「存在する感覚に対して否定が起こっている事が原因」なのです。
心の何処かでは「自分を好いて欲しい」と言う気持ちが確かに在るのに、「自分の事が嫌いだから、他者からの好意を受け取れず、他者も好きになれない」と言った状態になるのでしょう。
「存在する感覚」が好いて欲しいと願っている相手は、他でもない「存在する感覚」です。
稲田でもなければ貴方でもなく、本当の自分である「存在する感覚」に好いて欲しいのです。
ですから、稲田は「存在する感覚」に対して、「存在する感覚」の真意を伝えねばなりません。
また、他者からの言葉が「存在する感覚」の真意に近いものであるなら、それを否定する事なく受け容れる様に促してあげる事も必要になるでしょう。
稲田が汲み取った真意とは、「自分の価値を認めたい」「自分を好きになりたい」「自分を尊敬したい」と言った、かなり高い次元の承認や肯定です。
それらの承認や肯定は、幼い子供や動物に見た純粋な存在に対してであって、稲田に対してではありません。
故に、稲田の外見や能力、性格や環境は全く関係ありません。
「存在する感覚」そのものが肯定されれば良いわけですから。