この世においては「如何にして自らが望む物を得、如何にして自らが恐れる出来事を回避するか?」が焦点になります。
しかし、あの世に向かう事を選択された場合、「如何にして手放し、如何にして自らが恐れてきた出来事に向き合うか?」が焦点となりましょう。
つまり、この世で避けて来た事に対する全てのツケを払い続けて行く事になります。
執着の手放しが起こるには、エゴが悲鳴を上げかねない出来事や経験が必要な仕組みになっているのでしょうか。
しかし、あの世に向かう人はその出来事に対して悲鳴を上げるどころか、むしろ嬉々としてそれを迎え入れるでしょう。
「脳はビクビクしているが、心のワクワクがそれを上回っている状態」になります。
これはまさに、ゲームで初めて難敵、難所に挑む心境のそれです。
それをこの現実の世界で実体験するのですが、「ワクワクに従うとどうなるか」は言うまでもありません。
間違いなく、かつては最も恐れた出来事を乗り越えます。
それも楽しく難なく…です(楽しいとか難しいとかを考える“私”が居ない…と言う意味です)。
貴方はその為に努力も苦労もしません。
それでいて最大限の結果を得ますが、その時「結果を得て喜ぶ貴方」は何処にも居らず、クリアした喜びなり安堵感なりがそこに在るのみです。
こうして、恐れを避ける為の道具として得るつもりだったものが全て不要になり、後は本当に必要なものだけが残ります。
その残ったものは恐れを避ける為の道具としては役に立たないものばかりですが、その全てが自らの安寧を支えていたものであった事に気付くでしょう。
手放す事に適正の在る貴方は、得る視点から見たら苦行以外の何者でも無い道を嬉々として駆けて行く事が出来ます。
最後は自分に対する執着すらも手放し、肉体を保ったままあの世で活きます。
あの世に在りながら、この世に在る全てのものを必要な分だけ何でも好きに使い、楽しむ事でしょう。
それは、ゲームで遊ぶプレイヤーそのものではないですか。