稲田の正体3 | 魂の世界に生きる

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私が内なる世界と呼んでいたものは、魂の世界だった。

稲田と言うエゴの正体は、反射された光に対する反応です。

「赤に対する反応は嬉しい」「青に対する反応は悲しい」「緑に対する反応は愉快」「黄色に対する反応は怒り」…こんな感じでしょうか。

その反応の組み合わせを総合して、特定のパターンに名前を付けたものが稲田利弥と言う個人です。

仮にあらゆる色に対する反応が無くなったなら、そこに稲田と言う個人は居ない事でしょう。

ここでまず、「稲田(エゴ)の正体は反応のパターンである」と言う結論を出しておきまょう。

エゴが自分だとするならば、反応のパターンを失う度に自分が小さくなり、全てのパターンを失う事は死を意味します。

ところが、パターンを失う度に大きくなる何かが在り、全てのパターンを失っても尚残る何がが在ります。

それをスピリチュアルでは「本当の自分」や「真我」と呼びます。

反射される前の、全ての色を含んだ光です。

この全てを含む光を反射、吸収する鏡のようなものが、「現象として存在する稲田以外の全て」です。

もちろん、貴方も鏡の役割を果たします。

貴方と言う鏡に反射された色(性質)を稲田は見ます。

その性質が好ましい反応を示すにせよ、好ましくない反応を示すにせよ、大元は自分に含まれる色な訳ですから、やはりそれは自分なのです。

仮に稲田が貴方をバカだと思ったとしましょう(大変失礼ですがお許しを)。

それは稲田の光にバカと言う色(概念)が含まれているからそう思うのです。

つまり、バカなのは稲田であって貴方ではありません。

子供の頃は口喧嘩の際に「バカだと言う奴がバカだ」と良く言ったものですが、これは真実です。

稲田にバカと言う概念が無ければ、誰を見てもバカとは思えないはずですし、バカと言う意味すら理解出来ないはずなのです。

逆に、貴方を素敵だと思った時は、素敵なのは稲田であって、貴方が素敵な訳ではありません。

良いも悪いも全部自分に含まれている色であって、他人が持っている様に見える要素の全ては、実は自分が持っているのです。

こうなると、他人をバカにしたり見下したりする事は出来ないでしょう。

しかし、他人の素晴らしい姿を見て羨んだり嫉妬する事も無くなるでしょう。

その全てを「自分の姿を見ているのだ」と認識するからです。

ちなみに、稲田には自覚している範囲で見る事が出来ない色が2つ存在します。

「愛情」と「裕福」です。

仲睦まじい親子を見ても、立派なお屋敷を見ても、それらの色を稲田は認識出来ません。

その代わり、その対極概念である「憎しみ」と「貧乏」も見えません。

稲田は人に愛情を注がない代わりに憎む事は無く、裕福を知らない代わりにお金が無くても貧乏を感じません。

これらの色も稲田に含まれているはずなのですが、それらの色を見るべき時が未だに来ていないのか、始めから統合されていて概念自体が無いのか、眩し過ぎて目を背けているだけなのか、それは分かりません。

ただ、見えない色を追うより、見えている色をただ見ます。