漢字で書くと自我になります。
特定の何かを「自分で在る」と思い込む事を言いますが、その最たるものが身体と思考ではないでしょうか。
「この身体が私で在る!」とか、「この思考が私で在る!」と言った具合です。
スピリチュアル的には「この思考が私で在る!」という思い込みをエゴと呼ぶ場合が多いかも知れません。
その昔デカルトという方が「我思う、故に我在り」という有名な言葉を遺しています。
言葉は受け取る側によって如何様にも解釈出来てしまいます。
デカルトがどういう真意をこの言葉に込めていたのか、デカルト本人にしか知る術は在りませんが、ここでは「我思う、故に我在り」の『思う』は思考で在ると(僕に都合良く)仮定します。
その場合、「思考が在る事で以て自分が存在する根拠にしている」と考える事が出来ます。
しかしそうなると、思考が無い間は自分は存在しない事になります。
熟睡時は最も分かりやすい例えですが、その時の自分は何処に居るのでしょうか。
熟睡時は消えて、起きている時にしか現れないものを自分と呼べるのでしょうか。
話を戻します。
特定の何かを自分で在るとするのがエゴならば、エゴを脱却する考え方が二通り在ります。
①自分など何処にも居ない
②全部が自分で在る
この二つは真逆な事を言っている様に見えますが、指しているものは同じです。
全部が自分なら、自分と呼べるものは何処にも在りません。
当ブログでも“あなた”、「あなたの心」、「あなたの思考」と思いっきり分離させていましたが、言葉で分離させた時点ではエゴは生まれません。
“あなた”を「これこそが私だ!」と決めた時点でそれはエゴになります。
こうして“あなた”に成り済ますエゴが誕生します。
「認識主体で在る“わたし”こそが私で在る!」と言うのは、「この思考が私で在る!」と言っていた時と何ら変わり在りません。
「私は神で在る!」と宣言しながらビルの屋上から飛び降りたところで、人として落下する事に変わり在りません。
「この思考が私で在る!」とエゴが言っている事を気付いているものが在る事に気付いた時、入り口が見える事でしょう。