私がご縁を頂いているお薬師さんは、お堂の中に腰掛ける長椅子が設置され、しばらく過ごせるようになっています。
お薬師さんのお堂の中に入ると、
「チラチラ、シャララ」
お薬師さんの癒しの高波動が、実際の聴覚では聞こえない音として、ずーっと奏でられていたり、
天井は仏様の世界の空と重なり、癒し効果のあるきらきらや、ぽかぽかが降り注いでいます。
仏様のお堂の中は不思議なもので、外の世界とはっきりと線を引かれ、外の喧騒はずーっと遠くに感じられます。
魂の緊張もほぐれ、体も心も仏様に集中できて、癒しの力をたくさん受け取れます。
仏教に馴染みが少ないはじめのころの私は、仏様へは拍手をしない、くらいの知識しかありませんでした。
参拝のたびにお坊さんや檀家さんの様子を見よう見まねしながら、ときには教えて頂きながら、ちょっとずつ学んでいる最中です。
お薬師さんのお堂でゆっくりさせて頂いていると、どこかのお堂から太い鐘のような音が聞こえてきました。
神様の本坪鈴(ほんつぼすず)とは違う、深い音です。
お薬師さんに尋ねると、「おーりん」とか、「おうりん」と聞こえました。
このように神仏からのメッセージエネルギーは、自分の脳の中にある一番近い言葉に当てはめて認識しています。
自分に馴染みがなかったり、脳にぴったりの語句がなければ、それに近しいもので認識します。
あとで調べたら「おりん」という仏具があるそう。
よくよくお薬師さんの祭壇を見ると、お茶碗みたいな鉢と、その横にりん棒という布を巻いたやや小さめの棒があります。
「おりん」は、手を合わせる前に1〜3回くらい鳴らすことで、「これからはじめます」とお伝えするものだそう。
仏様への手の合わせ方は、手と手を静かに合わせる「合掌」で、音を鳴らす「拍手」は神様へ捧げます。
そして般若心経や仏様の真言を唱え、お話をさせて頂きます。
仏様の真言はお堂のどこかに書いて下さっていることも多く、それを見ながら唱えても大丈夫。
最後にもう一度「おりん」を鳴らし、終わりをお伝えします。
きっと宗派やしきたりによって、違うこともあると思いますが、そこではお薬師さんに教えて頂いた通りに行いました。
どの方法を選ぶのかは、ご自身が納得されたほうや、人間関係のトラブルにならないように「その場にならう」のも大切だと思います。
仏様は強いこだわりは持っていらっしゃらないので、怒られたり注意されることはありません。
その代わり、「人の念」をもらわないように振る舞うのを大切にされています。
ときどき、自分の信心を押し付ける人がいて、断ると「もらう」のが何となく分かり、仕方なく従わなければならないことがあります。
「私の信仰心に反するから嫌だな」と思っても、従っておいたほうが身のため。
そういう場面です。
「身のため」というのも、実はそれは霊的な感覚で、正解です。
なぜなら、どんなに理不尽な理由でも、人の「イライラ」「ムッ」を発生させると、それは自分に向けて飛んで来るから。
人の念の対象になると、不幸や不運を引き寄せたり、念自体の低波動に精神や肉体に悪影響を受けます。
仏様はそういう自分の信念に反するのも全部見ていますから、誤解されることはないので安心して下さい。
自分の健やかな人生や、命を守るほうを選ぶように仏様は仰います。
話を戻しまして、お薬師さんは「練習していく?」と言って下さいました。
私は人生で初めて「おりん」を知り、触らせてもらいました。
魂の経歴やお家の宗教によっては、お葬式にお坊さんが来なかったり、お仏壇におりんを置いていないことも。
私のように「馴染みがない」こともあるんです。
仏様はその人の魂の段階も、経歴も、「知らない」ことも分かっています。
仏様が見る私たちは、まるで小さな、よちよち歩きの赤ちゃんくらいなのかもしれません。
ですから、知らないことは教えてくれたり、知る機会を与えてくれます。
仏様は細かなことにこだわりませんが、お作法の中には私たちへの影響や、見えない世界に通じる「意味のある」場合があると言います。
私たちが正しく知ったり、身につけられると、私たちに良い影響がある。
だから、やってみたいなら「どうぞ」と、その深い懐を貸してくれる感じです。
仏様は、この世で頑張る私たちが道に迷いそうになったとき、拠り所にしてほしいとも仰います。
どんな魂も取りこぼさず救ってくれようとしている、とひしひしと感じました。
「おりん」を鳴らすと、低い音と高い音が混じったような分厚い音が鳴ります。
「おりん」を中心にして、その音と音色の波動が波打って広がり、お堂の中は仏様の世界と重なり合いました。
私たちの心の中の邪念を払う、乱れた波動を整える、邪気を払う、仏様に集中するなどの効果もあります。
初めて鳴らしてみて感じたのは、「魂が洗われて、頭の中がクリアになる」という感覚でした。
さぁ、これから仏様と話します!というモード切り替わったような、仏様の世界の高さに心を引き上げてもらったような、清々しい気持ちです。
色々なことをお話して、「そろそろ帰ります」とお礼を言いお堂を後にしようと、お堂から一歩出たところで、
「後ろを振り向かないように。」とお薬師さんの強く、厳しい、太い声が背中越しに聞こえました。
さっきまであんなに癒しの、優しい雰囲気だったのに...。
念を押されるように振り返るなと言われたので、振り返らないままその理由を尋ねてみました。
瞳だけでも振り向きたい気持ちをぐっと堪えながら。
「今のそなたの心は危うい。」とお薬師さんは言いました。
「振り返り」には、大きく3つの意味があります。
①ただの動作
②確認すること
③気持ちを置いていくこと
私がよくやりがちなのが、②です。
②には、幽霊のささやきや誘惑に惑わされて振り返る、同調するのも入ります。
それは私の子どものころからの癖で、反応したり、「怖いもの見たさ」に負けることでもあります。
何となく振り返るのと、怖いもの見たさで振り返るのは②、「失礼しました」というご挨拶の動作としての振り返りは①。
②には、「自分の意思を強く持つように」と仏様は教えてくれました。
心を強く持つ方法は色々ありますが、その一つに神仏を思い出す方法があります。
振り返りそうになるときに、神仏との思い出や、神仏の高波動、神仏の境内の雰囲気を思い出すのです。
神仏を思い出すと、弱い心を戒(いまし)め、自分の迷いや弱さにハッと気づき踏みとどまれます。
誘惑に負けそうになったり、魔が差しそうになったときもそうです。
きっとその行いをしてしまったら、とてつもなく後悔しそう、暗い気持ちになるだろうと思えば、暗闇に落ちずに済みます。
「お天道様が見ている」「閻魔様に裁かれる」という見えない圧や視線も、高次元からのサインです。
神仏は、私たちの魂の霊格が下がらないように、色々なサインを送ってくれたり、お導きや教えを説いて下さっているのです。
そして③の「気持ちを置いていくこと」についても教えてくれました。
お薬師さんは「名残惜しい気持ちを残さないように。」と仰いました。
人間から人間に念をぶつけると、お互い不調や不幸や不運につながります。
ですが仏様は、人間のように念の影響を受けるような存在ではありません。
ですから人の念が邪魔だからということではなく、「そのような癖は自分のためにならない」と言います。
悲しみや苦しみ、悔しさなど、念の種になりそうな思いは全部、仏様に吐き出して大丈夫です。
その苦しみをお話する中で引き取ってもらうことと、帰るときの「名残惜しい」気持ちを置いていくことは違うのです。
自分の魂の一部を置いていく癖をつけることは、自分のためにならないそうです。
出雲大社の神様は、「杭(=悔い)を残さないように」と仰いました。
神仏空間での経験は、私たちが思っている以上に魂の経験になり、魂に刻まれます。
そこで、「名残惜しい気持ちを置いていく」「悔いを残す」と、魂にその癖が刻まれて、剥がすのが大変になるそう。
私たちの気持ちや悔いは、神仏空間には残ることはありませんので、その心配ではなく、私たちの魂の成長の妨げになるから気をつけよということ。
お堂を後にしようとする私には、①〜③まで全ての気持ちがあり、お薬師さんにはお見通しでした。
「おりんを鳴らして、手を合わせて「ありがとうございました。」と言ったんだから、お堂の前で振り返る必要はない」と、お薬師さんははっきりと仰いました。
それでも仏様方へ向けて、「一礼したい」という真っ直ぐな気持ちなら、振り返っても良いそうです。
「ただ、忘れるな」と仰います。
「一歩外へ出れば、待ち構えるものがある。
自分の弱さに負けてはならない。
そのようなブレた気持ちのときは、仏を思い出し、丹田に心を置くように。」と。
丹田を活性化させる方法には、腹式呼吸があります。
重ねて言いますが、門の前で振り返ってお辞儀することが悪いのではありません。
したいと思われたらなさったら良いでしょうし、なさらなくても怒られることはありません。
ただし、後ろ髪が引かれる気持ちが少しでもあれば、自分のためにならないので、
特に敏感体質や憑依体質の方は、無意識に振り返る癖を持っていることが多いので、まずはその癖を自覚すること。
そういう癖を少しずつ、意識してなくしていけると、もっと生きやすくなるのかもしれませんね。