【プロローグ】

Mt.FUJI 100に向かう途中、仙台から南下する度に緑が濃くなる。こちらは1ヶ月ほど季節が進んでいるようだ。新緑の山々に囲まれた富士山に心が高ぶり、レースが待ち遠しく感じる。きっと明日は良いレースが出来そうだ。走る前も、走っている途中もその気持ちは変わらなかった。それでも後半に待っていたのは、とにかく苦しい100マイルだった。

どこで僕は間違えたのだろうかー。

 


とはいえ「100マイルってやっぱりいいな」と再認識できたのも事実です。今回はこの大会への想いも併せて振り返ってみたいと思います。

 

 

 

【きっかけ】

トレランをスタートして最初に憧れたのが2009年UTMB。そしてやってきたのが「UTMBの姉妹レースUTMFが2011年にあるぞ」という情報。「すぐには難しいかもしれないけど絶対出るぞ」と決めた。人生の大きな目標ができた感覚でした。


結局2011年は東日本大震災で延期。その年、23歳で働き始めた僕はトレランも本格的にスタート。というのも学生時代は好きに遠征できなかったから。「働き始めたらいろんなところに行くぞ」と決めていたんです。秋の泉ヶ岳トレイルを経て赤城山トレイルレースに出ます。


そしたらこの年のUTMB7位、テレビの中の人である鏑木さんがいる訳です。それはもうオンベチェ・モカンバ選手(知ってます?)にサインをもらった高校時代を遥に越える興奮です。そこで何の間違いか勝ってしまい、トレランの楽しさ×「自分速いかも」、という勘違いでトレランにさらに沼っていきます。そしてもらう訳です。”UTMFのプロモーション DVD“を。

 

 


これ。今見てもゾクゾクする。

 



震えました。もう絶対に出ると決めました。「自分がやりたかったのはこれだ」という想いがさらに強くなりました。とはいえすぐにはイメージできず、まずは徐々に距離を延ばしていこうと決めます。


そして2012年に第一回UTMFが開催。NHKで特集された番組は、自分にとっても2009年UTMBに並ぶ神回です(思い出補正もあると思いますが)。


石川さんヤマケンさん相馬さんかっこいいなー、横山さんの復活すげーな、奥宮さん望月さんやっぱ強いなー、西城さん山屋さん磯村さんロングレース強いなー、でもやっぱジュリアンやばいわw、アダム泣くほどきついんだ…みたいな感じで何回も見ましたね〜。何より富士山が綺麗で。


そして大会2週間後のOSJ奥久慈50kにMFで入賞した武藤さんが出てるんです。超人かと思いました。100マイルやる人の身体どうなってんの?って。憧れはさらに強くなりました。

 


あの時代



2012年の結果。メンバーが懐かしい〜。昔は大会が少なかったから、ここに書いてある皆さんと、どこかでは一緒に走ってます。鏑木男塾とか漆黒、ハッピートレイルとかのワードを思い出しますね。小原さん、アミルさん、松永さんもこの時からバリバリ。

 

そして翌年はまずSTYに出ようと決心します。STYは今でいうKAIですね。

 



【STYに出てみた】

2013年。ラスト勝負には負けましたが4位は上出来でした。怪我で2ヶ月走ってなかったので、終わった後は全身が痛くて妻とタクシーの方に介抱してもらって宿に帰った記憶が…。何はともあれUTMFの雰囲気を感じることができて最高でした。会場も河口湖で、場所柄もあるのか今より応援の盛り上がりが凄かったような気がします。ただやっぱり、100マイルを走ったみなさんが輝いて見えて羨ましかったんです。「次は100マイルだ」と心に決めて会場を後にしました。

 





【初めての100マイル】

2013年はおんたけ100kmに出ました。100マイルに向けて段階を踏みます。9時間30分くらいで6位か7位で、案外あっさり走れてしまったもんだから勘違いしました。「100マイルもいけるでしょ」と。


2014年、ついにきました初100マイルはUTMF。そして結果は半分でリタイア。怪我ではなく完全に精神的なものです。「半分でこんなに疲れてたら無理じゃん」と心をパキッとおられました。100マイルは100kmまでと別物だと思い知らされました。だってかかる時間が倍以上違う…。


ただ、この時本当に自分が情けなく、そして応援してくれた人に申し訳ないと後悔がすごく大きかったんです。この日以来、怪我や余程の体調不良でない限りレースはやめないと誓いました。「結果が悪いから」とかのメンタル的な理由でのDNFはなし。

そして「全ては100マイルのため」という、自分の中に確固たる指針が出来ました。短い距離のレースも、日々のトレーニングも最終的には100マイルのため。そんな気持ちでいると辛い練習も頑張れたんです。

 


半分で心折れた初めての100マイル。デンヌ速すぎでしょ。




【それからの100マイル完走歴】

2014年 おんたけ100マイル7位 18時間くらい

2015年 UTMF 60位 30時間くらい

2016年 UTMF短縮4位

2017年 UTMB ちゃんと覚えてないけど32時間で200位くらい

2018年 UTMF 42位 28時間くらい

2018年 信越五岳100マイル8位 21時間くらい

2021年 プライベート100マイル

 


2014年のおんたけで結構走れたものの、2015年は完全に打ちのめされました。100kmくらいのエイドで大瀬さん小原さんの次で全体10番だった気がするけど失速しました。トモさんに「ハンガーノックだよ〜」とアドバイスもらったことを鮮明に覚えています。



写真あった



2016年は短縮で4位。

 




すごいメンツだ…。何かの間違いでしょうか。

この時は良い準備ができていたので自信あったけど、今となっては100マイルを走れたかわからない

 


2017年に念願のUTMB。この時はITRAゼネラルのパフォーマンスインデックスで抽選なしで出られた時代。本番前に怪我して散々でしたが、勿体ない精神で完走。大会の盛り上がり、景色、コース、全てが世界一だと思える体験でした。


2018年は体調不良。練習しすぎた。で、信越はペーサーの慶太さんのおかげで入賞滑り込み。2022年、2023年はMFにエントリーしたものの怪我。こうやって振り返っていると全然走れてない…。ただ、おんたけ、信越と走れていることもあるので、“100マイルの適性への希望”は捨てずに走り続けてきました。

 


信越五岳の感動は忘れない




 

【いざ2018年以来の完走へ】

前置きが長くなりました。

この一年の練習は月間700km前後、累積は10,000m前後。2019年頃まで月間300km、その後は400kmがデフォだったので相当走りました。累積が少ないにしても過去の自分からしたら増加。この練習量にして3ヶ月くらいはきつかったのですが、徐々慣れてきました。「人間適応するもんだな〜」なんて関心したぐらいです。

(ただ能力的な向上は微増という感じで、正直コスパは悪いと思っています)



それでもタフにはなった。疲れていても走れるというか、ダメージが残りにくいというか。とにかく自分に一番欠けている能力だと思っていたので、これが手に入った時点で今回のMFはいけると思っていました。純粋な走力もついてきていたし、テーパリングもしっかりできた。

 


目標は21時間。でもあくまで“目標”です。競走ではなく自分のパフォーマンスを出して、結果それが何時間か、何位か、という気持ちでスタートラインに立ちました。やることはやってし、あとは身体が運んでくれると。

 


車の場所がたまたまインナー・ファクトの皆さんのお隣。スタート前は仙台、東北の皆さん、トモさん、南さん、若岡さんと少しお話し。そしてUTMBでサポートしてもらった一郎さん。数年会えてなかったから嬉しかった。やっぱり大会は出会いがあるからいい。大会の大きな醍醐味の一つ。そういう意味でも大会には定期的に出ないとね。

 


みんなリラックス。でも心は不安とも戦っているんだよね。解決する方法は走るしかない。


やっぱりFUJIはお祭りだ


 

【スタート〜F1富士宮】

とにかくジョグ感覚で進む。時計に目をやると心拍数は120~125。65%HRmaxだから相当余裕がある。「今日はこの辺りの強度で進んで後半しっかり走ろう」。この強度で何時間で行けるのかを信じてみることに。結果的にここからアミルさんと一緒に。練習じゃん。


あっという間にF1に到着。あれ、誰か距離短くしてくれました?


2時間18分でイン。2時間15分の予定だったがこの余裕度なら万々歳。4分ほど滞在で出発。

 


今日って練習でしたっけ?




【〜F2麓】

3時間25分で行く計算。合計6時間05分で到着し、エイド時間を抜けば3時間43分。強度は変わらずなのでタイムよりも余裕度優先。すぐに妻の待つサポートエイドへ。急ぐわけでもないので、談笑しながら、うどんとずんだパンを食べる。そんな中でもフラスコやジェルの交換は手早くやってくれる妻。うむ、さすが心得ておるな(何様)。


レース展開を気にするならエイドは常に3分で抜けたいところだけど、今回は気にせず。ここでは10分滞在。

 



【〜F3精進湖】

竜ケ岳の手前で佐口さんにパスされる。DEEPの時も一緒に走ったが、落ちる感じがしないというか見ていて強さと安心感がある。僕はマイペース優先だったけど、一緒に行って色々学ばせてもらえばよかったかもとちょっと後悔。


山岳セクションに入ると少しふらっときた。ヘッドライトのバンドを緩めたら治った。頭に何か巻き付けるのはやや苦手なんです。その癖でキャップを忘れたから、ライトに前髪が干渉してうるさいw。ガスって富士山は見えず。


精進湖には8:50で入る。ここは2時間20分目標のところ2時間35分。余裕度を考えると悪くない。というか良い。トイレ休憩を長めにとり出発。滞在は12分。さすがに長すぎたか。まあ FKTだと思えばなんてことはない。


出口で若岡さんと一郎さんに「アミルさん少し前に行ったよ〜」と教えてもらう。どこで追いつくかな。

 


【〜F4北麓公園】

鳴沢までのロードがスイスイ走れて気持ちが良い。高揚感も出てきた。紅葉台、足和田山も気持ちよく通過し長めのロードに出る。しかしアミルさんに追い付かないとは、アミルさん相当調子いいな…。


ここまでの強度は変わらず、心拍数は高くて125程度。この感じだと北麓公園には12時間ちょいで到着しそう。目標より1時間遅いけど、エイドの滞在時間と何より低強度で進んできたことを考えると悪くない、というか良い、すごく良い。この感じだと後半は11時間程度でフィニッシュは23時間くらいかなと皮算用を始めた。順位はともかく、今までの100マイルにはなかった余裕度に思わず小躍りしたくなる気分だ。というかちょっとした。


しかしそんな矢先、95kmくらいで口から出たキラキラが草むらに吸い込まれていく。「調子に乗るからだ〜」と自分を戒めつつも、なんで吐いたかがわからない。こんなに強度も低いのに…。それでも、吐いた後はしっかり休んで食べれば復活することはわかっている。これまでもそうだったし、復活までの時間は違えど、そうじゃないことは一度もなかったから。ようやく本当のスタートだと思っていたので、ネガティブな感情はなかった。


エイドには12時間25分で到着。この区間の目標は3時間のところ3時間21分。吐いたことを考えると十分満足できるペースできている。ただし、ここで一回リセットだ。ゆっくり食べて少し横になる。妻の気遣いに癒されつつも、「自分自身への挑戦は諦めない」と奮い立つ。21分休んで次の忍野へ向かう。ここで30位。復活すれば10番台まで行けるかな〜と、頭の片隅で希望は捨てていない。

 



【〜F5忍野】

それでも一旦は順位やタイムを忘れて回復するまで歩く作戦。無理に進むより復活してしっかり走った方がトータルでは良いからだ。1時間歩く。そしてパンを食べる、グミを食べる。しかし、おかしい。食べたのに「ガツン」と復活してこない。エイドでも食べたのに。吐き気もそれほどないし、食べられないわけではないのだが…。この辺りで「いつもと違うかも」と思い始めたが、具体的な解決策はなし。食べれば復活すると信じていたから。


忍野には2時間33分かけて到着。1時間50分の目標だったが、歩いた時間を考慮するとこんなものか。復活すれば24時間台では行けると思っていたし、目標を切り替えて進みたいと思っていた。忍野では11分休み、しっかり食べて飲んだ。ここで妻に電話して次のエイドで「おにぎりを食べたいから多く買って欲しい」とお願いする。


サポートのありがたさを感じ、絶対に少しでも早くゴールしようと自分に誓う。

 



【〜F6山中湖】

「ゆっくりなら走れる、エネルギーがあればさらに走れる」という希望で次のエイドに向かう。北麓公園から心拍数は100にも届かないが、脚が終わったわけではない。だから食べれば前半と同じ強度まで上げられると信じ続ける。東北RIZEのみんなに伝えてきたこと、自分が体現しないと。


女子3位、4位のありかさん、枝元さんにパスされる。悔しいけどなんとか巻き返したい。山中湖には16時間55分、区間タイム1時間25分で入る。目標は1時間10分だから、エイドの滞在が長いとはいえ、まだ自分で決めた最低ラインのところで踏みとどまっている。一旦は順位やタイムを忘れて回復に専念したが、やっぱり目標を決めないとズルズル失速してしまうのもわかっている。


ここからゴールまで当初の目標は7時間。当然それは無理だけど、1時間あたりプラス10分を目安にしたい。完全復活なら8時間で24時間、最低でも9時間以内の合計25時間台では行きたいと思っていた。


そしてサポートエイドは最後。妻と子ども達に「少しでも早く帰る」と誓う。夜通し付き合ってくれた妻の「頑張って」の言葉がいつもより心に響く。あ、俺少し弱ってるかも。いかん。15分滞在で出発。

 


【〜F7二十曲】

パノラマ台の登り。120kmを超えて流石にきつい。こんな時こそ2011年UTMBの「鏑木毅たれ」の言葉を思い出す。そして自分も「須賀暁たれ」と心で叫んでみる。しかし全く効果がない。そう、そもそも弱いから、プライドがないっすもんね…。ただ、新ルートで迂回した後、スタッフさんに冗談を言うくらいの元気はある。うん、やっぱり大丈夫かも。


しかしこの後完全に止まる。歩いて止まってを繰り返し全く進まない。とにかく力が出ないから歩きがあまりにもゆっくり。ハンガーノックだろうと思い、おにぎりを少しかじって進んでを繰り返す。

二十曲が永遠にこないんじゃないかと思うほど疲労していた。山伏峠で壮太さんが声をかけてくれたけど反応できず。この辺りから何をするにも億劫で、スタッフさんにもお礼を言えなく素通りするようになってしまった。


エイドはどこ?二十曲のエイドって移動しました?


もう何人に抜かれたかわからない。そういえばアミルさんを見ていない。ずっと先に行ってしまっただろう。


アミルさんに言われた「今回ダメならいよいよ才能なし」の言葉はもう決定的だ。



目標区間タイム2時間20分に対して3時間20分。一気に25時間台も厳しくなってきたが、エイドについた安堵感と、「この状態で杓子に登れるのか」という不安でエイドから出たくない。とはいえリタイアの選択肢はない。パンとバナナをいただいて出発するも、どう考えてもハンガーノック。終わった今なら「もっとしっかり食べればよかった」と思うが、この時は完全に思考停止で何も考えられなかった。情けない。滞在10分で出発。

 



【〜F8富士吉田】

杓子山手前の岩場は相当集中した。この状態なら落ちかねない。しかし毎年よく誰も滑落しないなと思う。やっぱり MFに出る選手はレベルが高い。よく見ると他にも落ちたら危ない場所が結構ある。見なきゃよかった…。そして岩場の上から杓子山頂までも中々着かない。


すみません。杓子山の山頂って移動しました?


やっとの思いで山頂も富士山は見えず。心の目で見るべくしばらく腰を下ろすも、頭の中は悪い意味で空っぽ。補給とか自分のやるべきこととか、もう全部どうでも良くなってる。


杓子を下りて、平地で歩いたらキロ11分、走ったら9分という状態。「それなら」とちょこちょこでも走る。エイドの直前でまさかのタムケン。山中湖から全部歩いてきたという。歩きで進んできた精神力よ…。うまく行かないレースの方がきついよね。ここまでは板垣さんとも前後しながらエイドイン。板垣さんも苦しんでいるけど止めない。俺も絶対にやめない。


吉田うどんを食べれば復活するはず。過去の MFもそうだったと信じて食べる、飲む。そして26時間台を目指してラストセクションへ。富士吉田までの目標は2時間10分で実際は2時間55分。状況はさらに厳しいが少しでも早く。ここでは12分滞在。

 


霜山へ向かう。泣いても笑っても終わりが近付いている



【〜フィニッシュ】

全く力が出ない。このレースで一番力が出ない、試しにスピードアップすることすらできない。

霜山の登りは過去サクサク登れた記憶だったが山頂に全然つかない。歩いて休んでの繰り返し、岩場に腰をかけているとタムケンが颯爽と走っていく。きっと目標を決めてプッシュしてるんだな。


それにしても霜山はどこ。標高2000mくらいになってませんか?


ようやく着いたトップで甲斐さんに会うも反応できず。「もうここで目を閉じて楽にさせてください」という気持ち。そう思ったら目の前に富士山がドーン。しばらく眺めているけど、それを言い訳に進むのを止めそうになっている自分もいた。心を鬼にして、富士山は終わったら心ゆくまで見ることにしよう。


やっと下りだと思ったら何度も登る。天上山。もう勘弁してください。私はもう瀕死です。「ここからなら歩いてもゴールできるよ。怪我しないで」というスタッフさんの言葉に甘えそうになるが、少しでも早く進むようにもがく。といっても全然進まないので抜かされまくる。ゴールが近づいてきたが何も特別な感情が湧いてこない。こんなのは初めてで、何も考えられないくらい辛い旅路だった。早く、1秒でも早く楽にしてください。ようやく2回目の北麓公園への緩やかな登り。


絶対一回目来た時より長くなってるよ。誰かコース変更しました?

 


27時間33分。

 

もがいてもがいて辿り着いたゴールでは立花さんが待っていてくれた。


「やめないでよかった。帰ってきてくれてありがとう」の立花さんの言葉に少しだけ救われた気がした。


そうだ、ゴールするのは7年ぶりなんだ。思ったような形じゃないけど、怪我なく家族のところに帰ってくることができた。たくさん待たせてしまったのに優しく労いの言葉をかけてくれる妻と子ども達は、自分にとって間違いなく一番のサポーターだ。ありがとう。終わってようやく少しだけ、このレースと支えてくれた皆さんへの思いが込み上げてきた。

 


最後の最後までありがとう。




最終区間は2時間30分目標のところ3時間47分。本当に長い旅だった。時間はもっと長く走ったことはあるけど、今回が一番長く感じた。それくらい疲労して、何より自分自身の状態に落胆し、悔しかったんだと思う。


 

 

 

【振り返って】

結果を出して「自分はできるんだ」と納得したかったし証明したかった。東北RIZEのみんなに結果で感謝を伝えたかった。でも何も叶えることができなかった。


でもこれで終わりじゃない。僕はやっぱり100マイル。KAIやASUMIも魅力的だし、もしかしたら表彰台に上がれるかもしれない。でも不思議と心はそこに向かない。それはきっと僕がこのスポーツに憧れた原点。やっぱり15年前と変わらず、鏑木さん、石川さんみたいになりたいんだ。


そして知ってしまったから。100マイルの魅力を。非日常の中に生まれる日常への感謝。決して大袈裟ではなく、支えてくれる人達への心からの感謝。

「もうだめだ」と思ってから限界を越えられるのは、感謝の気落ちがそうさせてくれるのだと思う。だから100マイルは感謝のスポーツ。初めてSTYを走った時に見た100マイルを走る人達が輝く理由を、自分が走ることで理解できたんだ。今回はとにかく苦しい旅だったけど、この気持ちは何も変わらない。



支えてもらう側でも、支える側でも心に深く刻まれるのが100マイル。サポートだけじゃない。スタッフの皆さんと一緒に作り上げていくのが一人ひとりの100マイルのストーリー。僕もその一人になれた二日間。支えてくれた皆さん、改めてありがとうございました。



「あ、そういえばアミルさんは?」。そう思って速報を見るとリタイアしていた…。え〜。よし、それなら「才能なし」の判断は信越五岳まで待ってもらおう。



今回7年前より30分早くゴールできたから、信越五岳も30分早い20時間40分で行けたらいいな〜、なんて。

 

 


【おまけ】

今回うまくいかなかった原因を考えてみました。


①そもそも内臓が弱っていた

体調万全のつもりだったけど、懸念していたのは1ヶ月前からの胸焼けで、練習に支障をきたすレベルでした。胃酸を抑える薬(アンチドーピング)を処方してもらい落ち着きましたが、なんとなく「胃酸過多ではなく胃酸が少なかったことによる症状」だった気もしています。酸っぱさがなかったし、生活習慣的に消化が追いつかないような状態だったかなと。だからレース中も思ったより消化できずに嘔吐、またエネルギーとしてもあまり吸収されていなかったのかもしれません。スタート前の段階で内臓の疲労が抜けてなかったというか。


試しにレモン汁をたくさん飲んでも毎回スッキリしてるので、その可能性が高そう。まずは長年避けてきた酢や梅干しなどの酸っぱいものを、これからは適量取り入れてみたいと思います。

 


②エネルギーが全然足りない

そもそも北麓公園前までの補給もやや足りなかったように思います。1時間にジェル2個(190キロカロリー)をベースに固形斑とグミを組み合わせましたが、後者はあまり摂れませんでした。結果1時間あたり50~100キロカロリー程度不足。終わってから計算すると北麓公園後に至っては、食べたつもりでも1時間あたり50キロカロリーにも満たなかった…。


ジェルを避けてしまった上に、固形物を少しずつ食べたのを「回数多いからたくさん食べた」と思い込んでいました。「ガツンと食べた」と思っていたのはただの印象。慶太さんの「いいからつべこべ言わずに食え、ジェル飲め」を痛感させられる結果に。吸収率下がっていたと仮定しても、そりゃ力出ませんわ。出力キープするなら補給大事とわかっていても、具体的な数字よりも内臓の不快感を優先して食べることから逃げてしまった結果です。


不快感も今思えば忍野以降は大したことなかったはず。初歩的なミスどんだけ〜。


「僕はどこで間違えた?」

そう、僕はここで間違えたんです。

 



【おまけのまとめ】

腹が減っては100マイルは走れず

腹が減っていなくても食わねば100マイルは走れず

食えなかったらコーラでもなんでもいいからカロリー摂るべし。栄養とかは二の次です。食うこと、飲むことから逃げるな。