名作の楽しみ‐563 田辺聖子の今昔物語 | 松尾文化研究所

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名作の楽しみ‐563 田辺聖子の今昔物語

「今は昔、いつのころか」で始まる今昔物語は、子供のころから目にする機会が多かったが、きちんと読んだことはなかった。これは十二世紀頃成ったという膨大な説話集である。それを田辺聖子が新しく蘇らせたものがこれである。彼女は「あとがき」で次のように述べている。

「今昔物語」は人々に仏法を説くための説話集であったと言われます。善因善果、悪因悪果の因果応報、さらには生者必滅。会者定離の仏教の真理について・・・。その真理が長大な一篇の物語に凝ると「源氏物語」となり、小さく砕けば「今昔物語」となるのではないでしょうか。尤も、「源氏物語」は説話集ではありませんが、その美しい玉を砕くと、飛び散る一片一片が、「今昔物語」の説話集になるのです。右の人生心理をどんな微細な破片にも備えつつ・・・。ここに紹介した物語も、「源氏物語」に通底する美しさと輝きをもっていると言えましょう。新しく蘇った、「今昔物語」の魅力をお楽しみください。

 私は今まで源氏物語は谷崎潤一郎、与謝野晶子、円地文子の訳で読んでいるが、今回、この今昔物語を読んで、なるほどと思った。そして、田辺聖子の源氏物語、正しくは「新源氏物語」を読んでみたいと思い、注文した。それはさておき、この今昔物語についていかに感想を述べてみたい。

 まずは、「人に知られぬ女盗賊」。「今は昔、いつのころか、侍ほどの身分の者で、その名も明らかではないが、年の頃は三十ばかり、背のすらりとした、少し赤髭の男がいた。その男が盗みをして捕えられ、検非違使に責め問われるままに、ありのまま、ふしぎな身の上を告白した。以下は男の話である。」にはじまる。明快な導入部は彼女の訳のせいでもあるのだろうが、現代の気の利いた短編小説を思わせる。これが全編にわたって登場するのである。この話は、女盗賊との不思議な時を過ごし、その後盗賊となって捉えられてしまった男の話。話のテンポがよく、無駄な部分が少ない。

次いで、「葦刈」。最初の部分、「朝からしとしとと降り続く小雨が、夜に入ってもやまず、むし暑い京の町は漆を流したような黒い闇に包まれている。ある邸の奥の一間、女人の住むあたりに灯があかるい。身分よき人の老いたる北の方が若い女房たちあいてに話しているのであった。」彼女の話、「今は昔、京に貧しい若者がおりました」にはじまる。若者は若い妻と暮らしていたが、一向に暮らしぶりがよくならず、妻に対して悪縁かもしれないから別れようと提案する。妻はそうは思はぬと抵抗するが、夫に説き伏せられて泣く泣く別れた。別れた後、妻はある邸に奉公するが、そのうち主人の妻が亡くなり、主人は美しかったその妻を後添えに据え、家うちのことなど任せるようになる。そのうち主人は摂津の国の国守になり、妻は国守の北の方と仰がれる身分になったのである。夫の方はいよいよ落ちぶれて、都落ちし、摂津の国まで漂い流れ、全くの卑しいしもべとなって人に使われていた。彼は畑仕事も木こりなどもできないため、雇い主は、難波の浦の葦を刈らせにやった。その折、摂津の国守の一行がその北の方を連れて領国へ赴く途中、難波の浦のあたりに行列を止めて、一族郎党とともに宴を張った。その際、北の方は葦を刈る下人の中にかつての夫を見出したのである。そして、歌を交わす。妻の歌「あしからじと思ひてこそ別れしかなどか難波の浦にしも住む」、夫の返歌「君無くてあしかりけりと思ふにはいとど難波の浦ず住み憂き」北の方はこれをみて、いよいよ悲しく男が哀れでたまらなかった。しかし、顔を上げた時、男は走り去ってしまった。その後、男の行方は誰も知らなかったそうである。老いたる北の方こそその北の方ではないかと女房達は推測したが、北の方はそうでもありそうでもなしとしておきましょうと述べるにとどまった。

最後に「風が出たのか前栽の桑竹がかそけく鳴る。鑓水の音がひときわ高く耳につくほど、座は静かだった。若い女房達はうっとりと耳傾け、それぞれに難波の浦辺の哀切なめぐりあいを思い描くのであった。」ことほどさように、こうした物語が続いていく。風流男の恋、雨宿りで逢った大納言と少女との不思議な縁、生霊の女、初午の女、さらわれた姫君、百万長者になる方法、鉾の女、大力の女、ほととぎすの女、船をかつぐ女、捨てられた妻、美女ありき、蛇髪の女などなど、女を題材にした物語が多く、すべて上記の型で語られていく。確かに仏の真理が長大な一篇の物語に凝ると「源氏物語」となり、小さく砕けば「今昔物語」となるのではないでしょうかとの後書きがなるほどと思われてくるのである。  

最後に、話の最初の部分で印象に残った文章を挙げてみた。

「生霊の女」野分の夜である。真っ暗な京の町の虚空に風が咆哮している。邸の大屋根を揺すりたてて、嵐は駆け去り、駆け来る。邸内の下屋に下人たちがかたまって、嵐の音に耳を傾けながら、寝もやらず、残りものの酒など酌み交わしていた。蔀戸も厳重に締め切っているのだが、どこからか風が入ってくるのか、地井さんな燈火がゆらぐ。

「思慮ある武者」時雨して、空はどんよりと曇ったまま夕方になった。折々、風が烈しく吹く。壺庭の桜や椋の樹の、黄色い葉がほろほろと落ち散り、庭土は思いがけぬ美しい敷物をのべひろげたよう。

「初午の女」京は深草の稲荷、二月初午の日は京中の人が稲荷詣でに参り集う。早春の風はまだ冷たいが、長い冬が終わった…という心ときめきするようなうれしさがある。人々は上社・中社・下社と山頂から参り終えて下向すると。還り坂のあたりで、携えて来た食事をひらき、くつろぎ、たのしむ。

「唐櫃の僧」京の山々に霞が立ち、空の色は柔らかになる。賀茂川の岸辺は一雨ごとに緑が濃くなってゆく。折節淡雪の舞う時もあるが、道に落ちるひまもなく溶け、牛車の屋根や供人の髪を濡らせる程度である。どこの邸のそれであろうか、町角に梅の香が匂う。その匂いをたずねてみれば祇園のお寺、感神院の庭の色濃き紅梅であった。

「さらわれた姫君」風が渡ると花吹雪が散る。北山のふところ深いところ、桜の老樹が一本あって、あたりの地面は雪のように白い。山かげにとくとくと湧く清水、そのそばに小さい庵があり、老いた尼が物語っている相手は、このあたりのお寺へお詣りに来た、都の貴婦人たちであろうか。夕陽はかげったがまだ明るい。落花がひとしきり、そこへ入相の鐘が鳴り、空は澄んで深くなってゆく。

「百万長者になる方法」池のそばの藤の花はいま盛りで、甘ったるい匂いが流れてくる。空はどんよりと曇って今にも降り出しそうな五月闇。ほととぎすがしきりに鳴き交す。雨気をふくんだ重い風が縁を吹き抜け、人々の膝を湿らす。酒が、うまい宵である。話にも熱が入る。

「海からの土産物」春の難波の海辺ほど面白いところがあろうか。海面は光りさざめき、青々とした蘆原は目路の限り続いて風にそよぎ、その間に数知れぬみおつきしが立っている。浜辺には白や薄桃色、雀色などの貝が海松や若布とともに落ち散り、浜遊びの少女たちは拾い興じる。砂浜の松の木陰で休む年輩の男は、落ち着いて清げな身なり。娘たちの父親でもあろうか。彼女らが競って見せに来る貝を見て微笑みつつ、「お恐れは、一枚の忘れ貝、恋忘れ貝というのだよ。それを持っていると苦しい恋を忘れられるという‥‥。

「ほととぎすの女」ほととぎすをもう聞いたか、いや未だだ、などと言う話が、初夏の京で交わされるようになった。橘の香りが軒に立ち込め、京は青葉若葉で埋まる。音羽山を越えるとき、ほととぎうを聞いた、という若者たちもあって、「音羽山けさ越えくればほととぎす梢はるかにいまぞ鳴くなる」という紀友則の歌のようだと人々は言い囃す。

「船をかつぐ女」夏の宵のうたた寝は心地よいもの、庭先の橘の果の香りがかすかに流れ,たそがれ始めた草の茂みに露が光初める。撫子がひとむら咲き固まっているあたりも、いつか夕闇におぼろげに溶けて‥‥。

「瓜と爺さん」稲穂がそよいでなびく。田植のにぎわいはついこの間のことのように思えるのに。「昨日こそ早苗とりしかいつの間に稲葉そよぎて秋風ぞ吹く」という古歌の通りである。

「すももの宴」京の町に夏がきた。四囲の峰々は濃緑となり、空は唐わたりの琅玕のように青碧いろである。そこへ白雲の飛ぶさまはさながら﨟纈に染めたよう、と言おうか。

「蛇髪の妻」むしあつい晩夏の夜。遠くの空で雷が鳴っている。夏花は枯れすがれ、秋の花もまだ咲かず、暑さの火照りで人も木も鳥・虫も弱って、ただ秋風を待っているという頃おい。

 今昔物語の文学性を理解でき、貴重な読み物であることを実感した。