一つ確かに分かる事は、国体は常に彼らを最大生産位置の外郭部に誘った歴史的事実である。前述した通り、リベラルな風潮においては、抽象表現や反語的表現の不理解や、注意欠如、他人の心が分からない等の、ネガティブな面だけが取り上げられているが、生産全体の論理において、グレーゾーンや若者の物質作用層は、歴史上、カンバー的(官房的)役割の外郭部を発揮し、最大生産位置と物理的には、遠くない距離で行動を共にした。

浮派と同様に、物質作用の自然現象的にはブルーカラー、ホワイトカラーのファンクションに向かっていくのだが、そのままそこに放り込むのではなく、こちらでストップを掛けて、生産深部から連なる段々のモノの連環(外郭部)に随伴させる事は可能だと考える。

可能性を高める為には、先程の自己判断の猶予がない事が必要であり、これは雰囲気(抽象性を具現化させたような外観と連なる外郭部、音の連環。)を重視するという事。歴史上のカンバー外郭部的な役割に徹底させる抽象性に対するボディランゲージと発音の抽象的な振動全般である。これによって自己判断(猶予がある場合の自己判断が知性に向かわず思考に向かい、オートマチックに落ちる習性を、抽象性からのモノの連環迄高める事が出来る。悪業(経験したい事に意識を向ける作用)の抑止が補填され、最大生産位置の身体的拡張部を担い、物質作用層の行いを最も徳寄りに引き上げる事が出来る。つまり形態的な右の行動論理迄高める事が出来る。


どの政治形態でも高い生産位置からの身体的拡張部は求められて来た。君主制でも、共和制でも、民主制でも自然存在の生産諸関係は同じなので、歴史が証明する通り、カンバー的な役割とその身体拡張部は生産諸関係の外郭部の働きとして必須なのである。


最大生産位置の人間の外郭部管理の最深部は最大生産位置の人間の脳にあたるカンバー(官房長官)であり、その拡張的な役割(文書、防護、総務、秘書、会計、企画、統計)を果たすのが、物質作用層(グレーゾーン層)である。


物質作用層はセキュリティと言い換える事が出来る。物質作用層は兵士と言い換える事が出来る。物質作用層は城の外壁と言い換える事が出来る。物質作用層は生産者の身体的一体性である。


現状の非生産者を生産関係に戻す流れは次のようである。


ロマン主義リクルートで入る浮派(個人主義者)が、教学、ポゼッションアート(節度やカースト)等のアトマスフィアと、漠然とした良くなるかも知れない未来という共産主義運動の基本原理に習って、社会主義的活動まで昇華される。

教学、節度、生産ミーティング、常時タスクを置いた事で結果的に保守的に昇華された社会主義層と、社会主義的に昇華された浮派層のヒエラルキーが形成され、尾ひれに残った浮派の層がいる。そしてそれと独立して監査とSS(秘書的活動)がある。これが当会の現状である。

私の失敗はSSや他の物質作用層と他の生産者と同様に生産を共有しようとしていたので良くなかった。物質作用層が社会主義以上の生産が必要とされる商売では生産が無いので、売上から給与を捻出する事が物理的に不可能な為、身体的拡張(連絡やデータの管理等)を任せる箇所に配置していた事は正しい。現実に飲食事業(身体的拡張事業)以外で生産に従事する事は出来ない。誤っていたのは、生産を上げる事を目的にミーティングしてはならないという事。物質作用層のミーティングの仕方は、既にある生産に向かう合意形成(ミーティング)ではなく、生産者1人が精進に向かう時間に在る身体の動作確認なのである。SSの常時タスクは自分の常時タスクで、遠隔的な起動である。浮派はロマン主義が生起しているので、おそらくこの最低限度の徳を保証する右的行動論理を嫌悪する。


私は、浮派よりも物質作用層の方が全体性(生産諸関係)においては生産行為は高いだろうと感じる。





まとめると

各省(各機関)は元有る生産の発現の根本(人口、文化、事業、財務、内容)を監督する(厚生機関、文部機関、通商機関、財務機関、官房機関(監査、外郭部)がある。(生産関係上、通商機関は官房機関の中にあるかもしれない。)



厚生機関は最も入り易い受け皿の事業を準備して人口を伸ばす。(人が入りづらいはずの人材紹介事業が全体の人口増加の受け皿として成立しているのは、夜間メインの為、昼に人口の母数を増やす事が出来、溢れた人達に対して事業を設置し続けている事で成立している。)この母数のラインの増加(例えば人材派遣会社を作ってフリーターの母数を増やす等)は通商機関の常時タスクの達成度に立脚して調節してゆく事になるはず。



文部機関はおそらく各事業の実質的経営者とイコールであり、社内独立者と呼ばれる者でも浮派層は、ファンクション的な仕事に流れ、物質作用層はやはり最大生産位置の身体的拡張の内で事業に社内独立者の名で取り掛かるが、生産が上がらないので、そのまま文部機関に事業が流れてゆくだろう。当初から文部機関(実質的経営者)=教学の体感的実行力の構図になると踏んでいたが、やはりこれは正しい。(知識のお勉強ではない生産諸関係(学問)の理解は、自身の過去の生産によるものなので、文化教育(教学)自体が既にモノ(通商)より生産が高い以上、教学を理解する人はモノと人体(社会)を見れるからである。)(エンジニアリング系の事業の場合、事業自体が最大生産位置の人間の身体的拡張である為、エンジニアリング系に対する段々の生産関係が理解不能でも、社会主義的な労働従事と空間的な責任感があれば、監督出来る。外郭部隊の中で部分的ではなく、社会主義的に物事を見る能力が養われている人間が、どれだけ空間的な責任を評価するか。その評価の共有を空間全体で高めるかである。今後エンジニアリング系の企業買収等の際に頻繁に出てくる監査の立ち位置である。)(文部(生産)が会社より存在として先行している。会社とは、生産関係の流れの中部以下(社会以下、モノ以下で枠で囲まれる枠(会)。社長とは、会(枠)の中で、社交かモノによって規定される有機的な責任の部分)



通商機関は厚生機関と連携をとって、何らか(恐らくは社内独立待機層とその母数にあたる文部機関の人数)を基準にした人口と事業数の比率を常時タスク化して事業を卸す必要がある。事業は生産向上の目的を達成出来る文部機関に流れ、外郭部(データ管理や危機察知等の物質機能)を官房が察知し、セキュリティが担う。(通商は官房の下である可能性がある。そもそも通商は外国の事業と取引するの意、団体性においてはM&Aやフランチャイズ加盟が外国取引と意味を同一にするが、人材紹介やIT等、社会主義以上の段々の生産理解がないと不可能な事業は通商的ではないので、通商というのは外郭部にあたり、モノの力で人のエゴを抑止出来ない社会主義以上の生産性が求められる事業立案と通商は異なる可能性が高い。)



財務機関は生産から降って来た現金を同等のラインである他のモノ(不動産や腕時計)に還元する事を原則禁止させ、出来る限りの高い生産地点に資本を還元し続ける現実的なビジョンを常に把握して伝えれるように準備しておく必要があり、そのうち通商機関と情報共有する必要がある。



そしてこれらと半ば独立して、官房と外郭部が存在するはずであり、官房は全体を俯瞰して、常に最大生産位置と、離れすぎている生産と生産の間を助言し、外郭部を各機関の生産内、段々の構造のいずれかの中継的なモノの働きとして必要な文書、防護、総務、秘書、会計、企画、統計として降らせるような形で入れる。


多分、官房長官は結構ハードルが高い。



文部機関(各事業の実質的経営者)が、教学や事業を通じて、生産位置を引き上げ、全体を昇華させ、途中の段々の生産が千切れずに連なっているかを注意深く観察し、その下に社会主義層(役職、責任感のあるスタッフ)が在り、浮派を見て反面教師的に生産に従事する。官房が参謀として内容の最大深部から具体内容迄を行き来が出来るレベルで通視し、助言し、外郭的役割を派遣する。この助言する先にいるのが各省(各機関の最大生産位置)統合の一体性を確保する役割にあたる総大将(内閣制の総理大臣、共和制の大統領、君主制の王)である。


そして、物質作用層は内容(生産、事柄)の向上に従事する事が不能である為、内容の最大は防護であると認識した上で、猶予のないボディランゲージ、音の空間の中で、物質的作業を行い、生産内容を引き上げる者の身体の拡張的役割を担う。



このように団体のリクルートが正常に機能している場合の3.6人に1人がグレーゾーンである事は、悲観するべき事ではなく、避けて通るべきではない正面から直視すべき課題であり、むしろ団体が本格的な進みを感じる上で必要な存在で、我々にとって力になり得る。生産関係深部に彼らを還元する試みは、浮派と左派の行いよりも徳の高い、跳躍的な行動論理である。