日本人は旅先で無宗教と言うと、人格が無いふにゃふにゃ人間に見られて、軽蔑されるらしいよ。向こうの人は、自分を知性的に見せる為に宗教を知ったかするくらいらしいよ。

だから、教養として基礎知識は持っていた方がグローバル化社会に適応出来るよ。

このような言葉は、そこらへんの帰国子女や旅行代理店の営業マンでも言える事です。

実際に、リベラルでは無い、保守的な国に住む外国人の多くは神的なものは有ると言っているが、ご都合主義じゃなく、また盲信でもなく、存在を確信している人はどれくらいだろう。


神を法律の上(憲法)に置いている国は多いし、日本も置いていたけれど、アメリカや現在の日本、フランスのようなそれは個人(脳)の考えるカテゴリーです。という風潮が蔓延している国もあるけどどっちが本当なんだろう。

私は若すぎる時、コンプレックスが故に、神を国民の統治システムとしての政治的発明だと考えていました。しかし、論理的に考えて、歴史的に見て、それが誤りであると分かって長らく経ちます。


だいたいの国の政治には、憲法に神などの抽象性があり、その下に法律があり、その法律の範疇で、個人が対象のカテゴリーに対して好き嫌いをフリーダムに発生させる事が出来ます。日本の場合、それが第二次世界大戦敗戦後に逆転し、天皇に代わって国民個人が主権を握っていった訳ですが、学問的、歴史的には、抽象性の下に個体の人権というのが、本来、世界共通の学問的な自然の在り方です。

世界宗教や伝統的学問のどれもが、個体の思考よりもデフォルトの抽象存在を説いている中で、仏教も同様に抽象性を説いています。しかし、一切は空性であると抽象性を訴えておきながらも、神という言葉を具体的には示さず、仏教は神を認めていないとチベット以降、中国や日本では、認知されています。(インドでは上座部仏教以外はヒンドュー教の中で釈迦の対機説法を認めているので神が有ると認知されている。)

仏教界で二分されて、今でも論争が続いている問題。無我、非我論争ですが、実際神は存在するのかどうかとは別に、釈迦は神を認めていたかどうかをはっきりさせる必要があるでしょう。


結論から言うと、大般涅槃経など、初期の仏典を見ると釈迦ははっきりとアートマン(我自体)、この私が問う対象としての私の存在を認めている記録が残っています。

その認め方として、どのように認めているかというと、アートマンは五蘊(この私)ではなく、また三界(欲界、経験したい事に意識を向ける世界。色界、(経験している事に意識を向けている世界。)無色界、それを超えた抽象性の世界。)には存在しない。という風に述べており、これは原典のパーリ語をヒンディー語に意訳した文献の他にも、パーリ語を英語から日本語に翻訳したものにもこのように翻訳されています。(また、それは我では無いと言いながら、自己を拠り所とせよとも頻繁に説いています。)


つまり無我ではなく、非我(それは我では無い)と訳すのが正しい。この私は存在では無く現象であるという意味を込めて無我と漢訳する事も出来るでしょう。しかしそれによって我自体が実存ではないとなってしまい、無い事が有るんだ!と思考の中で考えてニヒリズム的になってしまったり、仏教も他の宗教と同様に抽象性(空性)を説いているのにも関わらず、我は無いという点で、他の大型宗教には神(私の本質)があるのに、仏教のみ神(私の本質)は無いから特殊であるという理解になってしまう恐れがあります。(仏教が特殊なのは、対機説法形式で、相手のカルマ(個人主義の要素)を加味して発言しているところです。

実際、現代の俗世間的な仏教習慣では、非我ではなく、無我であると理解され、バクティヨガ(抽象度の最も高い生産位置)を失いました。(厳密には他で信心を説いている箇所もある為、混乱しています。)更にエゴに主権を持たせることを善としたタイプの民主主義国家(左翼思想)が、いわゆる西側諸国(現代の日本含む)を中心に蔓延する風潮です。
こうなると、宗教が生産諸関係を示す道という認識から外れて、多くの国民にロマンスの一種として認識されます。

戦後民主主義の風潮によってカルマヨーガとバクティヨーガが失われた日本国民は、日本仏教の無我という意訳の為に、高度な純粋知性(ジュニアーナヨガ)によってでしか、真我の存在をロジカルに知性で認識することしか出来ません。
よってこの無我の訳は学問史における最大の誤訳の一つと言う事が出来るでしょう。

そうなると、インド思想史晩年のヴェーダンタ(梵我一如、宇宙の根源と我の同一性)的な考え方ではなく、原初のサンキャ哲学的な考え方(物質世界の根源作用プラクリティの真我の観照によるこの世の形成の方が、理解し易いという事が分かります。


故に釈迦が出家した時点でのヨガ思想の源流(現在のヒンドュー教の源流、バラモン教の各教典)はそのまま正しく、心の働き(現象的対象事物に引っ張られる様)に臨場感が向く事を止滅させる非行為の働きによって真我を悟るというのは、アブラハム系宗教のモーセやイエスキリスト、ムハンマドの説いているバクティ的、カルマヨーガ的な内容「魂の修練と神への信仰」、また仏教の「それは我では無い、八正道を実践によって悟ってゆく」という基本教義の中に、紛れもない同一性を確認する事が出来ます。


そしてここで最も重要なポイント、実際に経典に載っている行法(八正道)に務め励み、この私(エゴ)を薄めていく事によって、現実の体感が身に沁みて来ると、出来事に対しても認識として抽象性を帯びて来るようになり、その延長線上を確信してゆく事になります。

こうなると、現代の俗世間(この私の思考的主権の信奉)を疑わないのが当たり前であるという感覚は、自然ではなく、異質な事で文明的(発明的)である事が分かります。世界史の流れを見ても、1700年代後半に、初めて世俗国家(アメリカ合衆国)が人類史で誕生する迄は、全ての国家で思考の主権は当たり前では無かった。これは歴史的な事実です。この私という近代的な主体は認められていなかった。それどころか、存在として共通認知されていなかった可能性さえあります。

国民の思考が、意思の生産関係である抽象性(神等の事柄全般)を超えて主権となる事は一度もなく、抽象性の下に法律等の具体性を配置して、その下に国民主権を置いて来た世界史に納得がゆきます。


個人至上主義的な教育を受けた私達にとって、にわかには信じがたいですが、この私の生起が、本体から落下のプロセスによって仮に生起する現象であり、現在この私の外界でダイナミックに起こっているように見える戦争等の働きも、実際には内発的なカルマの投影で、戻る、浮つくのカルマがプロセスである現象(この世)に物質的に投影されているだけであるというのが、仏教やヒンドュー教の見地です。(行為、非行為の返報性)(キリスト教等のアブラハム系宗教も異なる表現(善悪の戦争等)で同じ事を説明しています。)

社会システム上、俗世から完全に離れる事が難しい私達は、新しい言葉や新しい感覚を貪るのではなく、より原初のもの、文化的生活態度と言われるような、コンテンツ的では無い、既に有る抽象性を帯びたものを大切にしてゆくことが重要だと言えます。(八正道の正命にあたります。)
これは一定まで、カルマの落下のプロセスから戻ってゆく作用を持ち、この後に精進努力に入ってゆく事が出来。この流れで親友(法友)や家族に帰依する事の重要さの理解が体感的に深まり、ある程度定まった心を体感するでしょう。

具体的な憧れでは無く、なんとなく尊敬しなければならなさそうなものの中に、答えがあります。

アートマン(本体)は三界には存在しない。この私(五蘊)は、実態では無い。


イエスは言った。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。

神は御姿に似せて人間を作った。


釈迦は言った。
この世の空性を理解せよ。八正道に励め。最大の敵は放逸。三学(戒律、瞑想、教学)に帰依せよ。三界(欲界、色界、無色界)に家なし。


幼稚なまとめ方をすれば、現代の政治というのは五感絶対説と、五感現象説で分かれています。(そもそも近代科学化の元々の流れになったカント自体が五感の背景を認めています。)

五感を絶対視した存在順位と、五感をプロセスとした存在順位には摩擦があり、後者が正しい。前者は幻影のようなものであり、五感の上の景色を固定化して見るのは妄執である。

現代人(日本の戦後民主主義被洗脳者、昔の人の考え方、今の人の考え方として最新の方が優れているという認識の人)は、友達の作り方が分からない。友達は作るものではないという事が分からないのである。

学校(抽象性と節度)を共有するチーム(フィリア)だから友達なのである。その抽象性の下位に位置する対象(友人という物質)に思い煩う事は、妄想である。


もう30歳です。数年ほど前から、個人の主権と、仕事、プライベート、友人、従業員がバラバラになっているグロテスクな日常にケリをつけようとしています。抽象性に帰依し、全面で関係に入り、それを広義にデザインしようとしています。流行しているエゴ主義の逆風を、近場から追い風に変えてゆきたい。