雪は深夜の寝静まった頃積もって一面の銀世界に変じていた。気温も低く、今日はお出かけは止めておこうかと思いながらだらだらと午前中を過ごすうちに、朝から続いている晴れ間は継続していて、一日の気象を保証しているかに見える。隣接する学校の三本のポールに形容された旗はだらんと垂れている。風は殆どない。雪が降る気配は少なくとも日没まではなさそうだ。行き先は決めずに、とりあえずハンドルを二回三回と切っていいるうちに、久しぶりに大宰府に行ってみようと思った。
右手に陽光に輝く背振の山脈を見ながら南下する。

つづら折りの峠道の昇り降りを終えると南下していた道を、今度は進路を東の方向に変じる。道路の前方に宝満山と三郡山の連邦が見えてくる。雪はこちらの方が深いようである。

ゆっくり走ったので一時間ほどで大宰府の政庁跡に着く。駐車場にバイクを措いて、付近を歩いてみることにする。昨日のように寒さに震えないように今日は早めに切り上げたいものである。




ふと背後の晴れ間に雪にけぶる遠山が、まるで西部劇に出てくるロッキーの風情のようにみえる。万葉集のことを考えているのに、インディアンのことを思うなど、奇怪な自分である。

広大な大宰府の政庁跡の芝生公園を歩くのは爽快である。背景の四王寺山の麓まで歩き、そのまま観世音寺の方に向かう。

政庁跡の北限に、例の旅人の歌碑を見つける。
世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり
素直な歌である。そっけないほどに率直過ぎるまでに簡素な、外連味のない、歌いぶりである。実は旅人が妻を亡くしたときの歌とは意識せずに記憶していたのだが、遅れ破壊のように、旅人への思いが、いま、蘇る。
悲しみが極限の形をとるとき、心情は心身脱落し、あらゆる虚飾を排した率直、素朴、簡潔極まりないニヒリズムの形をとるしかないのだろう。


次は、博物館前にある、あおによし、・・・・・の歌碑である、歌い手は小野老。
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
こちらは随分とノスタルジックな、近代的なイロニーと頽廃の気分をただよわせた歌である。旅人の絶唱は品格も歌いぶりも異なった都会的センスの、万葉集が素朴で大らかであると云う一般論は、この歌に関する限り再考すべきであろう。


観世音寺にも寄って行く。
昔は、大晦日の「ゆく年くる年」で度々
放送されていたものである。




収蔵庫に西日が射している。
五メートルほどもあろうかと云う巨大な
馬頭観音等の立像が林立する姿
は壮観である。
これだけの仏像群を祀る伽藍は、かって
壮大なものがあったのだろう。

戒壇院にも寄って行く。
いまは観世音寺とは別寺だが、
往古は山門を入ると左手に配置されていたと云う。
傷んだ屋根瓦、崩れかけた土塀、
雑草が茂る境内と、時の淘汰のままに
滅びの姿を留めていたかにみえた寺も、
随分と綺麗に整備されているようである。
塵ひとつなく、櫛目が入れられてある。
わたくしの思い出の風景も
またこうした形でひとつひとつ、
この世から姿を消していく。


とりあえず、政庁跡、観世音寺、戒壇院と一巡したので、政庁跡横にある展示室に引き返し、ボランティアと称する年配の人の学芸員の風格を漂わせる
解説に耳を傾けるまま、互いに意見を交換して
一時間ほども過ごしてしまった。
話は佳境にいったか、案内人は、
わざわざ博物館の外に連れ出して、
丘としか思えない土盛りを示して、
卑弥呼の墓の可能性があると今後の
調査計画の概要の一端を明かしてくれた。
誰にでも開かせるような話ではないのだが
と云う気迫を口吻に漂わせながら、
例の「・・・陸行一月」の解釈だが、
その人の言によれば、このままだと
沖縄辺りまで行ってしまうので
不都合である。
それでコレラのような集団感染を想定して
博多の辺りで足踏みしていたのだとすれば、
ちょうどこの場所になるのだと云う。
大事な秘密事を語り終えて
しばしの沈黙があった。
是非とも、地域と郷土を愛する人のために
わたくしもそうなってほしいと願う。