電話を切った大川は、知らず知らず、自分の親指の爪を噛んでいた。
「これでよかったのかどうか」
そう何度も自分自身に問うていた。
大川の川上派での立場も微妙になっていた。それまで、兼山の後ろ盾があったとはいえ、兼山が5億円脱税と、その後が略式起訴という形式犯の扱いで世間からの指弾を受けてから、兼山は政治の表舞台に顔を出さなくなった。それとともに、兼山の妻の道代の大川に対する態度がよそよそしくなっていた。大川は、まったく感じていなかったが、この間、兼山の家に訪ねた時に、それはよくわかった。それで、川上派の仲間だった政治家が、冷たい態度をするようになっていたのだと、ようやく感ずいた。だが、皮肉なことに、同じ道代に嫌われた淵田が、川上の派の中で、妙に人気が出てきている。やはり人柄からか、彼を嫌うものはいなかった。どうやら、川上も、後継者を淵田と考えているふしもあった。
大川は、なんとなくそれを感じていたから、このところ、漠然と、自由独立党から出て、新党旗揚げを考え始めていたのだった。
「もう、どうにでもなれ。ともかくも、あんあ守銭奴のいうことなんか、誰が聞く」
と、云いようのない怒りを、兼山に感じていたのだった。
一方、国税庁長官の岩田は、電話を取り次いだ庶務の女性の前に行き、
「ありがとう。これから、大川という人から電話があったら、何もきかないで、すぐ取り次いでください。あなたが机を離れる時は、代わりの人に言っておいてください」
と言った。
「分かりました」
「いいですか、きっとですよ」
「はい」
岩田の強い念押しに、秘書役の女性は答えるのだった。
部屋に戻った岩田は、すぐに財務省事務次官室の内線電話の番号を押した。
「事務次官室です」
男性の秘書が出た。
「国税庁の岩田だが、事務次官は空いてるかい」
「今、主税局の説明中でして、これが終われば30分ほどあきます」
「じゃ、十分でいいから、お会いしたい」
「ご用件は何でしょうか」
「たいしたことじゃない」
「はあ?」
『どうせ、主計出身の秘書なのだろう。なんでもかんでも知りたがる。主計局長に報告でもするつもりか』
岩田と主計局長とは同期である。腹立たしくなったが、岩田は
「頼まれてた見合いの話だよ」
と言うと
「分かりました」
と、急に素直になった。
財務官僚の見合いの話は、時には重大な事になる。親しい政治家、財界人などから、娘に財務官僚をと頼まれれば、それなりに優秀な役人を捜さなければならない。岩田は首相秘書官をやったことがあるので、政治家から話があったものと、秘書は誤解してくれたようだ。
きっかり30分後に、事務次官室から電話があった。
「今すぐ来てください」
さきほどの男が、電話口で早口で言う。国税庁は、財務省の一組織で、同じ建物にある。岩田は、玄関にある広い階段を使わずに、近くの狭い階段で下に下りた。国税庁、財務省の記者に顔を会わすのを恐れたのだ。狭い階段から下りれば、記者クラブからも離れているので、見つかる可能性は少ない。もし見つかって
「どちらに行かれるのですか」
と尋ねられても、そこの出口からも近いのが霞が関ビルだから
「ちょっと霞が関ビルに野暮用で」
と答えておけばいい。ただ、廊下で見つかった場合はどうするか。その時は、
「ちょっと次官室に野暮用でと笑って答えておけばいいさ」
と腹をくくった。
そんなことを考えていると、記者にも合わず、すぐに次官室についた。
「長官、どうぞ」
と先ほどの男が、次官室のドアの方に向かって手を挙げた。さっそく中に入る。
「どうも」
と、ソファーに座った小島に声をかける。
「やあ、どうした」
ソファーに腰を下ろすか下ろさないかのうちに、岩田は言った。
「大川先生が協力してくれることになりました」
「本当か」
「さきほど電話がありました。ブツは、パール・ローヤルにあるそうです。ガサ入れの日を時前に知らせてくれれば、その時に、まだあるのか、移したのか、移した先はどこかを知らせてくれそうです」
「確かかね」
「はい」
「そう言っておいて、兼山先生に知らせる気ではないのか」
「それは分かりません。しかし、信じていいと思います。わざわざ向こうから電話をくれて、しかも自由独立党の幹事長とも名乗らず、大川とだけ言ったそうですから」
「そうか」
「いずれにしても、これで地検は動いてくれるかな」
「内通者がいれば動くようなことを言っていましたが、信用はできません。そうとう臆病になっていますから」
「じゃあ、どうするかね」
「東京高検の検事長が、私と大学の同期で、まんざら知らないわけじゃありません」
「そうか。そっちの線からあぶりだしてくれるかね」
「そうします。とりあえず、これから、戻って、野中君を呼んで、この話をして、それから検事長のアポを取ります」
「そうしてくれたまえ」
岩田は、急いで次官室を出て、長官室へと戻っていった。