埼玉県・・・蕨市

   三船山合戦で討ち死にした渋川氏、廃城後は家康の鷹狩御殿・・・蕨城

 

 蕨城は、昔、東京湾の海岸寄りの湿地帯に荒川の土砂が積って出来た微高地に渋川義行が館を構えた。伝承によると、金子右馬之助家忠の一族が保元の乱や平治の乱を避けて蕨本村(現錦町付近)に落ちのびて蕨に住み着いた場所だ。交通アクセスは、JR京浜東北線・蕨駅から15分の蕨城址公園と神社のある蕨市中央4−20−9付近にあったお城だ。

 南北朝時代に入ると渋川直頼の嗣子として生まれた義行が武蔵国司に任命され貞治・応安(1362〜1375)頃に武蔵国司に就任し蕨に入ったという。義行は17歳(正平20年・1365)の時に家を継ぎ、備後国の所領を引き継ぎ、室町幕府より備後守護、備中守護に任命された。そして翌年には斯波氏の辞任で九州探題に就任(実際には九州への下向はかなわず)した武将だ。

また、義行の曽孫である義鏡(よしあき)は、長禄2年(1458)に足利義政将軍より古河公方(足利成氏)に対抗するため、渋川義鏡が関東探題に任命され、蕨城主になったという説も伝わる。

かっての堀跡

   城と合戦

 蕨城は、大永6年(1526)に扇谷上杉朝興軍に攻められて落城したが、北条氏の助力を得てその後再び蕨城を取り返した。永禄10年(1567)になって蕨城主渋川義基は、北条方の援軍として上総(千葉県の一部)三舟山に出陣戦死した。

土塁跡

 三船山の戦いは、里見義弘が国府台の戦いに敗れて上総を奪われたが、その後、西上総の佐貫城を奪いかえした。これに対して北条氏政は小田原より佐貫城奪還に立ち上がり、岩槻城主の太田氏資とともに三船山に陣を敷いた。8月23日の衝突で北条勢は太田氏資が討ち死にし、北条方の渋川氏も敗れて渋川氏の家臣たちは、蕨に帰り帰農したといわれている。地元に伝わる“龍體院伝説”は、この三船山合戦の時のエピソードだ。

土塁跡

 江戸時代の始めには、徳川家康の鷹狩用の御殿として城跡が利用されたという。蕨城の古地図によると、東西が沼、深田で囲まれて幅が11・8㍍の囲い堀と、幅8・2㍍の土塁を巡らした長方形の平城で堀内の面積は約12,200平方㍍あったとされる。遺構は公園や神社内に土塁や空堀、水堀らしき遺構がわずかに残っている。

和樂備神社

 現在の和樂備(わらび)神社は、明治44年(1911)に蕨町内にあった18社を八幡社に合祀( ごうし)して和樂備神社に改称した。 合祀以前は、「上の宮」と呼ばれた「八幡社」、「中の宮」、「下の宮」が鎮座し、蕨を領していた渋川氏が蕨城の守護神として八幡大神を奉斎したことが始まりと伝えられている。

神社境内案内

 『鎌倉大草紙』には長禄元年(1457)に曽祖父渋川義行が蕨を居城とした関係で、孫の義鏡が室町幕府から関東下向を命じられた旨の記述がある。また神社の植樹は、林学博士の本多静六博士の指導を受けている。神池は、かっては幅8㍍、高さ4㍍の土手を巡らしていた蕨城の堀跡の一部で、“御殿堀”と呼ばれていた。

 参考資料:『埼玉の館城跡』(埼玉県教育委員会)、「蕨城跡案内板」(蕨市教育委員会)、『鎌倉大草紙』、『日本城郭体系』、『戦国合戦史事典』(新紀元社)、「和樂備)神社御由緒」など。