「振りむけば世界は広い」㉟

イスラエル国㊦

《死海・キブツ・ダイヤモンド》

 

 

死海の辺(ほとり)にて

エルサレムの町並みが遠ざかるにつれて、くねくねとのびる舗装道路の両側     は、褐色の砂漠地帯になりました。キリストの墓がある聖基教会も、モリア山にそびえる回教寺院の金色の丸い屋根も、オリーブの木が茂るなだらかな丘も、白壁の家も消え、車は小高い砂山を縫うように進んでいきます。

機関銃で武装した監視所の前をいくつか通り過ぎ、道はどんどん下っていきます。

30分も走ったでしょうか。

目の前に瑠璃色の湖水が広がりました。海面より400mも低いところにある死海です。

 

「死海の真ん中が国境になっています」

ドライブの案内役を買って出てくれた青年が指さしました。

青年は、ヘブライ大学の日本人留学生で、ユダヤ文学を勉強しているのだそうです。

指さす先、湖水のかなたに石灰岩の丘が広がっています。

「向こうの丘はヨルダンです」

今度は、指先がクルッと右に回りました。

「こっちの緑の林は、キブツです」

砂山の切れた所からピーマンの畑が続き、その先はオリーブの林になっています。

 

「キブツ」と呼ばれる共同体

キブツとはヘブライ語で「グル-プ」という意味だそうです。

日本の農家も農機具や肥料の購入から、収穫、出荷、販売まで、地域の農協がやっていますが、ギブツは、農協をさらに徹底した共同体で、生産効率も、大変高いそうです。

また、ギブツは、農業だけでなく、工業キブツもあるそうです。

砂地を長期に借りて開墾し、入植し、開拓地を造り、衣食住から育児、教育、厚生といった施設を持ち、すべて共同で管理し、経営しているといいます。

 

キブツは国境付近を中心に約270を数え、構成員は100人から1000人、計10万人です。イスラエルの人口からみると数パーセントに過ぎませんが、優秀な人材を輩出し、イスラエル議会の議席の15%を占め、国の政治、行政の主要な地位についている人も多く、初代首相のベン・グリオン、女性首相のゴルダ・メイアらも、キブツ出身だといいます。

友好、親善を目的に日本からも若い人たちが、キブツを体験しに来るケースがあり、案内の青年も、研修生として1年間、キブツで生活したそうです。

 

 ―見事に開墾されていますね。

「砂地を開拓して畑にしていきますから、最前線のキブツは、灌漑作業ひとつとっても大変です。僕は日本にいる間、雑誌なんかの編集の仕事をしていました。夜遅くまで酒を飲んだり、マージャンしたりで、体がなまっていて……。

ところが、キブツにはいった途端、早い時は朝3時に起きて、果樹園でオレンジ、グレープフルーツ、ビワなどを収穫したり、養魚場や食堂での手伝いをしたりで、肉体労働が多いうえ、職場がグルグル変わるのです。

この国の若者は、つぎつぎ兵隊として出て行く。そうすると職場に穴があく。そこを誰でも埋められるように、日ごろから訓練しておくのですね。

技術者としても働けるし、牛も飼えるし、果実ももげるという具合ですね。半日労働で、半日はヘブライ語の勉強をして、衣食住は保障されているうえに、小遣いも毎月、貰えるので、とても、ありがたいのですけど、なまった体に慣れない労働が最初はつらかったですね」

 ―キブツには私有財産はないのですか。

「原則としてありませんね。同じように労働して、同じものを食堂で食べて、子供たちはキブツの保育所、幼稚園、小学校で寮生活をして、保母さんは、キブツの奥さん方が交代で当たるわけです。

土地、建物も共同体名義で、同じように分割する。能力割りでなく頭割りですね。だから、私有物は身の回りのものは別にして、全部差し出します」

 

 話しているうち、車は死海のほとりに着きました。

 
 

 道路から岩場を10mほど下りると、水際に出ました。

 太陽がカッカッと照りつけ、何人かが泳いでいます。泳いでいるというよりプカプカと浮いているという方が、正確かもしれません。

水は澄んでいます。なめてみると濃い食塩水のようです。

でも、死海の周りは、不思議と真水の泉が多いといいます。

草木がところどころ群生しています。

 

日陰を探して、腰をおろすと、青年が、また話し始めました。

「この国の若者がキブツに寄せる熱情は大変なものですよ。親たちが作りあげたキブツを受け継ぐというのでなく、自分たちの力で、新しい土地を切り拓きたいという情熱を持っています。

毎日が砂地との戦いでありながら、やがて理想郷をつくるというファイトを持っていますね。それで、国防軍のエリートといわれる人たちもそうですね。1967年6月の6日戦争の時、負傷した兵士の4分の1は、キブツのメンバーだったといわれます。いわば国造りと防衛の先兵の役割を果たしているのです」

 

 ―若者が農村から都会へ出ていく日本と随分、違いますね。

「キブツでは生活水準も、教育の水準も非常に高いですからね。それに若者が学問をする道がちゃんとと開かれている。どこのキブツに行っても、古いところは図書館、美術館などを持っている。メンバーを募集するキャッチフレーズも、『子供たちに完璧な教育を』というのです」

 

青年が近くのキブツで「結婚式」があるというので、私も見に行くことにしました。

芝生の広場に行くと、舞台が設えてあり、その脇で、黒のシルクハットに黒服で盛装した5、6人の男性が輸になって話し込んでいます。式の手順の打ち合わせをしているのでしょうか。

広場には、幾つもテープルが置かれ、ビールやジュースが並べられ、ハム、チーズなどが大皿に盛り付けてあります。

着飾った男女がテーブルの周りに立ち、新郎新婦の到着を待っています。子供たちも盛装しており、大はしゃぎです。

花嫁はキブツのメンバーのお嬢さん、花婿は、ここへ来て半年ぐらいの青年といいます。

歓声が上がり、拍手が広がりました。

綿摘み用のトレーラーがゆっくり、ゆっくりと舞台に近づきます。横づけされると、助手席から白いドレスの花嫁が、青年に抱きかかえられるようにして降りてきました。

拍手と歓声が、一段と高くなり、熱を帯びました。

舞台にいた紳士たちが、一斉に手を高く掲げました。赤や青の布で作った天蓋を広げました。色鮮やかな、大きなバラソルのようです。天蓋は家を象徴するのだそうです。

その下に新郎新婦が、並んで立ちました。

夕闇が迫るなかで、ラビ(導師)が花嫁に「ユダヤ人の伝統に従って、夫に尽くすかどうか」を尋ねました。

それにこたえて、花嫁が、新郎のそばを7回まわり、導師は神への感謝と祈りをささげました。つづいて新郎が、足元にガラスの器おいて踏み割り、式を終えました。

 

「2千年前のエルサレムの陥落と崩壊を忘れずに、幸せな家庭をつくろう」

そんな思いが、この儀式にこめられている、といいます。

新しい家、新しい夫婦の儀式に、2千年前の国の崩壊を忘れまいと誓うユダヤの人たち。脈々とつづく民族の、歴史の重さが、ずっしりと伝わってきました。

文化、伝統、そして国家。

華やぎの祝宴を見ながら、私のような日本人が、もしも、こういう共同体で、異邦人、異教徒に囲まれて、暮らせるだろうかと思いました。

ちょっと無理だろうなというのが、私の率直な感想でした。

 

シャバ―ト(安息日)のイチゴ狩り

この日は「シャバート」(安息日)でした。毎週金曜日の日没2時間前から、土曜日の日没まで、鉄道も、バスも、タクシーも止まってしまい、ほとんどの食堂、商店もシャッターを下ろしてしまいます。

 イスラエルでの永住権を認められている日本人の方に、「シャバートの日は、何処に行っても、不自由でしょうから、私もちょっとお手伝いしている農園があるのです。そこでイチゴ狩りをませんか」と誘われました。

マイカーに乗せてもらい30分程、見渡す限りの畑の中を走ります。

ナス、ピーマン、トマト、ジャガイモ、ニンジン、ダイコン・・・。イチゴ畑は、その一角にありました。

約100m四方に、何列も畝が並び、緑の葉と葉の聞から真っ赤に熟した大粒のイチゴが下がっています。緑の畑を渡ってくる風は、甘ずっぱい香りをいっぱいに含んでいます。思いきり深呼吸をしました。

畝と畝の間に並んで腰をかがめました。

無農薬栽培。さっそくイチゴをもぎとって口のなかへ放り込みます。甘く、それでいて、ほのかな、すっぱさが、口いっぱいに広がっていきます。日本で、ビニールハウスで栽培されたものばかりの甘いイチゴを食べていて、すっかり忘れていた野生のイチゴの味です。子どものころ食べたイチゴは、確かに、こんな味だった、と思い出しました。

 「ああ、おいしい」、思わず声が出ました。

「そうですか。お誘いしてよかった。荒涼とした土地を切り拓いて、移住してきた人たちは、ここまで成し遂げたのだから、たいしたものですよ」

チュ、チュ、チエと鳥の鳴き声。草いきれの中にすっぽり埋まっていると、けだるくなるほどののどかさです。

 イスラエルで、こんなにノンビリできるとは思いもかけませんでした。

 

テルアビブはダイヤモンドの町

テルアビプはイスラエルの表玄関です。

20世紀に入ってできた町だけに、欧米風の新しい町並みがつづいています。

道路のあちこちに街路樹が植わり、地中海の砂浜沿いに高層のホテルがいくつも建っています。

 

 

テルアビブは、ダイヤモンドの街でもあります。

世界のダイヤモンド産業は世界中に散らばるユダヤ人のネットワークと南アフリカのダイヤモンド開発会社「デビアス社」によって支えられていると言われています。

もともと、各国に散り散りになっていたユダヤ人が、イスラエルに移住した時、ダイヤモンド研磨の職人がいたことから、政府は補助金を出して、職人の養成に乗り出し、積極的にダイヤモンド産業を支援しました。

さらに、ダイヤモンドの輸出入に関税をかけないなどの優遇策を講じて、基幹産業の一つとして育てました。

今では、原石の買い付けはユ、ダヤ人が経営するデビアス社、研磨加工はイスラエルという構図が出来上がり、全世界で宝飾品として使われる小型ダイヤの約80%はイスラエル製といわれるまでに発展し、対日輸出の加工ダイヤのほとんどは、テルアビブをへて日本に入ってきているのだそうです。

 

研磨職人は2万人いるといわれていますが、カットの仕方だけでなく、透明度や色の違い、傷や混ざり物の有無を見分けていく技術は、いわば秘伝で、ユダヤ人の血族による世襲制が多いといいます。

そんな中に、日本人の職人がいると聞き、市の南部のラマトガンにある仕事場へ訪ねました。

ダイヤ商人たちが集まって原石を交換したり、売買したりする超高層のダイヤモンドエクスチェンジビルを中心に、中小の研磨会社が7、800社もひしめいています。

仕事場は5階建てのビル。その最上階です。

ビルの外に取り付けられたインターホンで連絡すると、電動式の鉄格子が開きました。足を踏み入れると、2メートル先にもう一つの鉄扉がありました。

その前まで進むと、入ってきたばかりの鉄格子が閉まりました。カゴの鳥のような状態です。

鉄扉ののぞき口から誰かが見ています。

訪ねてきた人が、約束していた人物であることを確認したのでしょうか、扉が開きました。

 

スポーツシャツの日本人職人が、「お待ちしていました」と握手してきました。

「厳重なので、びっくりされたでしょうね。窓という窓も、全部、鉄格子が入っています。ダイヤ強盗が日常茶飯事ですからね。これまでにこのビルも3回、襲われましてね。うちの事務所は難を免れましたけど、機関銃で撃ち抜かれて、ごっそり持っていかれた所もあります。会社によっては、扉を三重にしているところもありますよ」

事務所は70平方メートルほどで、研磨付きの作業台が並び、10人ほどが、それぞれの台に向かっていました。

一番奥の作業台に案内されました。旋盤によく似た研磨盤は、鋳鉄でつくられ、スイッチを入れるとレコード盤のように回転します。

ダイヤモンドの粉末とオリーブ油を混ぜた研磨剤が塗ってあり、まったく光沢のない、ガラスの塊のような原石を当てると、細かい粉末を飛び散らしながら、少しずつ磨かれていきます。

地上で最も硬い鉱物ダイヤモンドはダイヤでしか磨けないのです。

米粒ほどのものでもアズキ大のものでも、ダイヤ粉を散りばめた研磨台で何10という面をつくります。

ブリリアント・カットと呼ばれるのは58面、98面、102面……。とてつもなく緻密な作業で、熟練工でも、緊張の連続だそうです。ちょっと手元が狂うと、いくら高価なダイヤモンドでも二束三文になってしまうからです。

 

「家に帰ると、もうぐったりしますよ。まあ、これを見てください」

そう言いながら小さなチリ紙の包みを持って立ち上がり、窓際に進みました。

額から汗が噴き出しています。ダイヤが風に吹き飛ぶ恐れがあることから、窓もあけられず、クラーも、扇風機もありません。

 包みを開くと、中央で米粒ほどのダイヤがキラキラと妖しい輝きを放っています。窓に近づけると、光の屈折で、さらに輝きを増しました。

 どうひいき目にみても、小さな町工場にしか見えない作業場。「汗まみれの職人たち」と「ダイヤの輝き」。あまりにもチグハグ感じがしました。

でも、職人の世界というのは万国共通、産み出すものと、違いが大きければ大きいほど本物なのではないか。突然、そんなことを思いました。

 仕事が終わるのを待って、地中海に面した中華料理店で、一緒に食事をしました。

 「日本一の、いや、世界一のダイヤモンド職人になりたい」という顔は、輝いていました。

仕事への情熱が、ほとばしるように伝わってきました。

イスラエルという国は、そういう気持ちを起こさせるような強靭な精神と、不屈の闘志を常に抱いている国家なのではないか、唐突に、そんな感想を持ちました。