愛子さま日本赤十字社へのご就職

お目出度うございます。

 

愛子様の赤十字社の創業精神への深い賛同からのご就職選択

だったと思います。2020年6月に投稿した当アメバブログ

<婦人従軍歌>と<赤十字精神>をそのまま愛子様へのお祝辞

に代えて再度投稿させていただきます。

 

<婦人従軍歌>と<赤十字精神>

だいたいが勇ましい戦争賛歌が多い軍歌の中で、異色の人道的な軍歌がこの<婦人従軍歌>です。音楽性と云う面で語るなら軍歌には美しいメロディーものが多いと思います。そのわけはやはりその時代の優秀な音楽家が軍歌を手掛けているためでしょう。この「婦人従軍歌」を作曲したのは1894年の奥好義(おくよしいさ。1858~1933)。君が代を作曲した人です。雅楽師であり宮内庁楽士兼音楽取調掛の作曲家。君が代は公式には林廣守の作曲となっていますが、当時の組織の代表としての名目で実際は奥好義の作曲です。後に替え歌が「のらくろの歌」になった「勇敢なる水兵」も彼の作曲です。

 

この歌を歌っている歌手は戦前より戦後のほうが多いのでしょうか、あるいは戦前のソースが戦争の混乱で失われてしまったのでしょうか。分かっているものでは渡邊はま子、森繁久彌、ペギー葉山、青江美奈、それにフォレスタなどです。

 

明治の名官僚、伊沢修二がアメリカで知り合ったルーサー・ホワイティング・メーソン(1818~1896)を招聘して当時の優秀な雅楽師に西洋音楽を学ばせたのです。その間わずか2年でしたが、日本の西洋音楽学習に多大の貢献をしたのです。その時の雅楽師に奥好義のほか「故郷の山」を作曲した辻則承(つじのりつぐ)、「鉄道唱歌」などを作曲した上真行(うえさねみち)などがいました。皆西洋の弦楽器などを演奏したので、鹿鳴館の舞踏会でひっぱりだこだったと云う話です。

 

一方この「婦人従軍歌」の歌詞を創ったのは歌人として有名な加藤義清(1864~1941)。本人も近衛師団軍楽隊の一員でもありました。ある日、日露戦争に出征する友人を新橋の駅に見送りに行った時、軍人達とともに若い従軍看護婦が大陸の戦地に赴任するのを知って感動し、戦地での活動を想像しながら一夜で作詞したと云われます。

 

加藤義清の歌詞の中に軍歌らしからぬ人道的な場面が出て来ます。「味方の兵の上のみか、言(こと)も通わぬ敵(あた)までもいとねんごろに看護する心の色は赤十字」この歌が出来たのは1894年。北イタリアのソルフェリーノの戦いで死傷者が放置されている惨状に心を痛めたスイス人アンリ・デュナン(1828~1910)が赤十字国際委員会を立ち上げたのが1863年。スイス国の十字の旗の赤と白を逆にしたのが今の赤十字の旗。

 

佐賀藩の逸材、佐野常民は医学から航海、造船、灯台設置などの政策と技術に転身し、1867年のパリ万博で赤十字に出会い、「文明の進化とともに道徳行動の進化も必要」と考えた佐野は帰国後1877年に西南の役をきっかけに「博愛社」を創設しました。当初は敵味方を差別せずに看護するという思想が政府に理解されず救護団体「博愛社」の認可が下りませんでした。佐野は当時の征討総督有栖川親王に直訴し、親王の英断によって許可をもらいました。1887年には日本赤十字社と改名して以後の活動の礎を築いたのです。

 

この歌詞が出来た1894年ころにはすでに敵であっても人道的に救いの手をさしのべるという考え方が浸透していたことがこの歌詞でよく分かります。日本でも「武士のなさけ」といった考えがあるのですから、キリスト教国の「汝の敵を愛せ」という思想も少し角度は違いますが理解出来るのではないでしょうか。

 

歌詞1

火筒(ほづつ)の響き遠ざかる
跡には虫も声たてず
吹き立つ風はなまぐさく
くれない染めし草の色

歌詞5

味方の兵の上のみか
言(こと)も通わぬ敵(あた)までも
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字

歌詞6

あな勇ましや文明の
母という名を負い持ちて
いとねんごろに看護する
心の色は赤十字

 

現在も戦争や非人道的犯罪の絶えない世界です。

愛子様がお仕事を通じて赤十字創設の理念をもって

正義と人道の世界を作り上げることにお力ぞえ下さることを

心より願っております。