ゾンビ世界の捲土重来 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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祝!安倍政権レームダックかあるいは崩壊!

 

というほど簡単ではない、あるいは、すべてがうまくいくわけではない、政治状況ではありますが、このままビルに突っ込む航空機のような事態は避けられるかもしれない、という安堵感もあったりなかったり。

 

もちろん、それは手放しで喜ぶ話ではない。レームダック化した場合、あるいは、こいつは大丈夫かという政権が誕生したとき、当然ながら、あの(ケンポー改正の勢いのみあったアベ)政権のころのほうがよかった!として猛攻撃を加える輩が出てくるのである。その攻撃力はなかなか頼もしいものがある。

 

制御不能な飛行機の機長がそのうまくいかなさに、ショックドクトリンなごとくあれやこれやと公共財や国民の富を盗み取ろうとする諸外国・国内の売国資本家やその意向に唯々諾々としたがう経営者、支配者層気取りのマスコミ、学者連中へへ流れそうになってしまうときに、与える一撃は実に頼もしいものである。

 

そう、野党としての自民党が最近は実に頼もしく、与党になった途端、全くの役立たずになってしまうことが分かった。野党としての攻撃は、ほどほどの現実に根差しているとその力は人間に対して実に響くものになるのである。

 

野党の先輩である左翼野党の攻撃は、それに対してどうだったか。

それは、あまりにも理想的過ぎて、人類皆兄弟と叫べば何もかも分かり合ってお互いが仲良くできる!というありえない前提を基にして、地球市民主義(コスモポリタニズム)を繰り広げようとしていたからである。少なくともそこには生身の人間はいなかった。裏表の裏の実を取り去った「きれいなジャイアン」ではなく「きれいな人間」がいたのである。ディストピア物語で現れる世界では、良い言葉で日髄だ現実を覆い隠してしまうことが多い。まさにその世界が提示されているがゆえに、洗脳でもされない限りは恐怖を感じてしまうのだ。神の世界には人間は生きられない。

 

ただ、そんな地に足を突いた土着型政党であった自民党が戦後レジームの最終地点を(幻想で)見てしまい、そこに取りつかれたときからすでに、地に足を突いた力を失いつつあったのかもしれない。八紘一宇をアメリカと同化して実現するのである。しかし、あまりにも神々しすぎてそこに残っている人間は実体経済を動かしている庶民どころかカネという借用書の上に乗っかているだけの大資本家すら誰もいなくなっているかもしれないが。。

 

資本主義という知恵が終結したおかげでこれだけの人類の繁栄を築いたともいえるが、それは全体が一様に繁栄した、ということはあまりないことであった。多くは、多くの虐げられる存在の上に少数の搾取者が支配していくという構造になっていくのである。全面戦争、あるいは、総力戦の戦争に至ることでそんな構造が破壊されたというのが、2回の世界大戦であり、その戦争の国民総動員体制を戦間期に国力向上に適用したのがケインズ的な政策であった。総力戦であったがゆえに努力する量もそれによる富を享受する量もかつてないほどに差がなくなったのである。そもそも文化的に奴隷をとれない日本においてはそのパワーは世界一発揮されたといってもいいだろう。もちろん、粗雑なところはあり、個別の話を言えば、凶悪な事件も今よりは多く起こっていたところもあるだろう。しかし、あまねく富の享受は社会の空気を熱くさせていたには違いないのである。

 

大戦からしばらく時間がたち、一方的な需要者であったアメリカが停滞していくなかで、総力戦から平和時代の”弱肉強食”思想である新自由主義が席巻していく中で、総力戦をし続けてきた日本もその制御方法が分かっていないままに、アメリカの言うことなら間違いないやということで、行政改革と名で導入し始めた「弱肉強食」思想、新自由主義であった。それは、緩やかなものではあったが、資産バブル崩壊という、世界から当時馬鹿にされた現象をひきおこしてからは、まったく自信が持てなくなったのである。

 

もともとシンがあってやってきたわけでないから、ふわふわと困ったときのアメリカ頼みということをやってきたゆえのことである。頼りのアメリカの言うとおりにやっていくことが、それまでの日本の体制の保守とばかり言われるようになったのが顕著になったのは、1990年前後のバブル崩壊以後のことだろう。

具体的に、壊国売国政策である緊縮財政を始めたのは、1990年後半の橋本龍太郎政権、消費税5%からであり、猛烈な勢いで公共事業が縮小されていく。あきらかに日本の国情を見ないで緊縮をやっているその状況は、これまでの2000年にわたって蓄積してきた、国土に対する対応をかなぐり捨て、さらに東京一極集中という形で、国の構造のぜい弱さも加速させていくのである。

 

この時点で本当に日本に対する危機感が国民に残っていたかといえば、おそらくほとんどそうではないだろう。左翼の人々はもともと地に足がついていない、神々しい地球を見ていたために、日本がどうなろうと理想地球のためであれば、死んでもいいと思っている。保守と呼ばれる人々は、藁をもすがる形でアメリカにその生き残りをかけてしまう。国情に合わせたアレンジなど全くせずに、言われたことをそのままやろうとするのである。中間団体である各種業界団体を岩盤規制と称して、「敵」にしながらである。

 

どちらも、地に足のつかない神々しい地球や八紘一宇の日本を見ているがゆえに、実際に国土に結びつけられた国民は、搾取される一方である。それでも、もしかしたら足元をすくわれるまでは、自分の足元が削られていることすら気が付かなかったのかもしれない。劇場型の政治というものが席巻したのは、もはや地に足をつけた政治をやる気もないからだったのだろう。

 

人気をとるには実に効率の良いやり方なのだ。

コスパコスパ!人生コスパが良ければ何でもいい!死んでもいい!効率のためならば。

もちろん、しばらくはこれまでの蓄積で食いつなぐことができるので、死ぬのが遅くなればなるほどその甘い汁に長くありつけるだろう。政商といわれる連中はそれを頼りに生きているのかもしれない。子供世代?そんなの知ったこっちゃない。未来の一族という感覚すらない、俺一代で現世をうまく生きればいいんだ!という考え方なのだろう。

 

対論 「炎上」日本のメカニズム (文春新書) 対論 「炎上」日本のメカニズム (文春新書)

 

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日本の強みは、愚直までに長く続けることであった、と思う。それを守ることが、なぜか知らないが、うまくやれて、長く続く社会を作り上げてこれたのである。たまに、それを壊そうとする人間が出てくるが、それすらどこかで足を引っかけてつぶしてしまうことで社会がひずむのを戻してきたのである。

 

上記の本でわざと避けられている、安倍晋三の名前と写真は、著者の一人が所属する政権の批判となるがゆえの配慮なのであろうが、「普通」の感覚でいえば、現政権の状態について特に突っ込みたいというのが本当のところであり、ネタとしては最もインパクトのあるものであろう。

 

それがゆえに、もう一人の著者のブログでは、先日亡くなったというゾンビ映画の生みの親の話になぞらえて現政権の状況を述べている。

 

追悼 ジョージ・A・ロメロ監督、またはゾンビ映画の政治性「ダンシングライター」

 

ただの死者の蘇り映画ではなく、死者の蘇りが多勢であり、かまれれば死者側に取り込まれるというゾンビ映画の絶望的な状況は、その絶望的な状況を示すとともにその先に合う世界がどうなのかということを示そうとしているとみることができる。映画ファンでもないのでそんなにこの計の映画を見たわけではないが、最近のアニメでは下記のものがあった。

 

 

 

 

アニメでは、最後は籠城していた学校から脱出して新天地を求める、というものである。おそらく魯メロ監督の作ったゾンビ映画のテンプレート通りの話なのだろう。

それにしてもその、新天地とは何だろう。ヨーロッパから脱出してアメリカ合衆国を勝手に作ったイメージだろうか。日本だったら、満州かシベリアに脱出して合衆国でも作るイメージか・・・。いずれにしても、世界がほぼ隅々まで見えてしまっている時代においてはそんなことはできないのである。脱出するにも脱出先はない。たぶん、そこにある国を再建するしかないだろう。

 

そんな、多勢に無勢のゾンビの世界が崩壊するきっかけもある。

ゾンビは自分の意思がないがゆえに、空気に流されやすいのである。

 

グッバイ憲法改正、または「反安倍炎上」の可能性「ダンシングライター」

 

原子化された大衆はゾンビゆえの炎上でゆらゆら動く状況。長く続くと思われた政権すらあっという間においとされてしまう。この状況が、大衆のゾンビ状態が収まらない限りは、まともな政策での政権運営すらままならないかもしれない。その時間は相当な額必要になる。しかも、死者ゆえにその辺の角に体を打ち付けても血を噴出しても気が付かない。そのうちに傷つくことも大いに考えられるのである。うひー。

 

 

 

 古今東西、歴史では戦に破れたら「捲土重来!」と一旦引いて、内政に専念し、国力を高め、民を豊かにして再戦するのが習わしです。

 すでに私の見る所によると日本は国際競争・グローバリズムで敗戦しているでしょう。いまや「技術大国日本!」などというスローガンは、虚しく響くだけです。

 であれば撤退して捲土重来、内政に専念して財政出動をして国土を再生し、国際競争にはできるだけ巻き込まれない形で政府があらゆる国内産業を育成するべきであろうと思います。

 

この20年の負けっぷりと、それから目をそらし続けてきたその時間は、立ち止まっているというよりはムーンウォークのごとく後ろ向きに進んでしまったとしか言いようがない。しかし、進んでいるつもりでいるからたちが悪い。

 

 

この漫画で元ネタにされている首相はその幻想の大いなる立役者であり、経世済民に逆行して国力を棄損すると気づいていた少数の人々を除いて、熱狂していた対象であるが、周りの国や民主党の連中が情けない形で描かれて相対的に今の政権首脳につながる自民党の連中が持ち上げられていた。

その格好良さは、「技術立国ニッポン」という麻雀技?に集約されており、やっぱり、なんといっても工業技術の品質の良さと生産性の高さだよなぁ、と思ったものである。その本を読んでいたころは・・。

 

それから10年、すでに技術立国ニッポンは、守らなければ残らないという瀕死の状態になっている。

捲土重来で、恥も外聞も捨ててやらないといけない、それこそ、総力戦に立ち向かうべき時なのである。そんなときに、外国やサミットなどの会合でへらへら国の資源を売るだけで名前を売っている売国首相については、やめてもらうか、死に体になってもらうことから、次が始まるのである。

 

 

 

それは、ゾンビの倒れたショッピングモールや校庭や街を歩くことになるので、簡単にはいかないのではあるが、総力戦にもっていく必要性は大いに感じられるかもしれない。