おてらさん

大分にある臨済宗のお寺さんです。


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「人間の憂いは執着するよりどころによって起こる。

じつに、執着するよりどころの無い人は憂うことが無い」

(相応部経典)

 

先日、49日の法要でお経をあげたあと、親族の皆さんと墓地へ移動し、納骨を済ませました。

 

その時に、親族の中のひとりの女性に声をかけられました。

聞くと、その女性の知り合いに、身内を亡くされてもう1周忌がこようかというのに、未だにお骨をご自宅に置きっ放しの方が居る、それってどうなの?という質問でした。

 

実は、当山の檀家さんにもそういう家が数件あります。

難しい理由では無く、ただ単にお墓が無い。という場合もあります。

それまで家のお墓というものがなくて、ゆくゆくはお墓を建てようと思っている。という方もいらっしゃって、そんな場合はまだわかるのですが、実はちゃんと新しくお墓も建てたのに、3回忌を過ぎてなお納骨しない(できない?)人も・・・

 

その方のお話を聴いてみると、(独り身でずっと父と二人暮らしだったので)そのお父さんのお骨をなかなか手放せない、ということでした。

自分としては、こちらからプレッシャ-をかけて、無理に納骨させることもないだろうと思いましたので、とりあえずはそのまま。

お参りなどでお会いした際に、その都度お話を聴かせていただいて、心境が変化するのを待っている状態です。

 

お声をかけていただいた女性の場合は、詳しい理由まではわかりませんが、1周期を過ぎても納骨しないなんて。と、激しく違和感を覚えていらっしゃるようでした。

 

確かに、地域の風習や宗派によっても違いはあるのかもしれませんが、通常は49日の法要を済ませたら納骨するのが通常の流れ。

 

特に理由も無く、納めるお墓が無いわけでもないのに、いつまでもお骨をそばに置いておきたいと考えるのは、やはり執着心ではなかろうかと思ってしまうのです。

死別、という言葉もあるとおり、死=別れ。です。

もう生前の姿も無く、目の前にあるのはお骨の入った小さな壺なのに、それでもなお別れを惜しむ気持ちは、理解できなくもないのだけれど、やはりそれは姿形に執着しているだけなのでは?と、思えてしまいます。

見えるところにお骨がないと、故人の存在を実感できないのでしょうか?

 

人はお金に執着すると、お金で憂い、ステ-タスに執着するとステ-タスに憂う存在

であると釈尊は説きました。

ならば、愛する者の存在に執着するものは?

 

それはただ、姿形にとらわれ、執着しているだけなのです。

愛だと思っているそれは、愛ではなく執着なのです。

そこに安心(あんじん。恐怖や不安から離れた、心穏やかな境涯)はないのだ。

 

即物的な価値観で考えるのではなく、目の前に確かな存在が見えずとも、心でその存在(おかげさま)を感じながら生きることこそが、釈尊の説く幸福の形だと言えます。

 

執着は、苦の種だ。

 

 

ちなみに先述の、3回忌を過ぎてもお父さんのお骨を納められない男性ですが、今年のお盆にお話させていただいた際に、「次の祥月命日で納骨しようと思う」と仰ってくださいました。

少し時間はかかりましたが、ちゃんとお別れできそうです。

 

 


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