About literature


どんな文章が好きかと聞かれたら、「川端康成」と「三島由紀夫」と答えるだろう。この二人の研ぎ澄まされた文学表現には誰でも深い感銘を覚える筈だ。特に「雪国」の冒頭の一行を読んだだけで鳥肌が立つ「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」

そんな書き出しで始まる「雪国」だが、最初の1ページに込められた深い思いと味わいは、本を手にした人を直ぐに魅了する事だと思う。無駄や冗長性が排除されて研ぎ澄まされた美しい文章には絶句する。日本文学として完成度の高い美しさがある。

ただ、物語として「誰の本が好きか」と聞かれたら、今は「村上春樹」と答えるかもしれない。「村上春樹」の文章は前記の「川端康成」と比較すれば、荒削りで、日本文学的に考えれば未完成なのかもしれない。日本文学的に推敲しようと思えば簡単だ。

だだ、その荒削りの中にある自由さと、文章の持つ透明感は絶対に誰も真似できない。作品の中で特に好きなのは、彼が手がけた最初の三部作(後にも沢山の小説を書いているが、この三部作を越えてはいないと思う)である「風の歌を聴け」、「1973年のピンボール」、「羊をめぐる冒険」だ。読んだ後に「青い空と初春の野原に芽生えた蕗の薹」を思い起こさせる(透明感と可能性かな)。

何故、いきなり文学の話をしたのかと言うと、最近文章を一生懸命書いていると、「どんな文章を書けばいいのか」、「どういう風に書けばいいのか」深く考えるようになったからだ。それともう一つは、幾つかの小説を読み込んでいくうちに、非常に後味の悪い小説に出会ったからだろう。

酷い小説は間違って入った喫茶店で出される不味いコーヒーより始末に悪い、残る後味がいつまでも味覚を狂わし、嫌な感じが頭の中でいつまでも続く。ならば、有名な喫茶店で高いコーヒーだけ口にしていればいいのか。そんな事は無い。時々でも、毒饅頭も食べてみないと、おいしい料理の味の感動も薄れてしまう。なんとも厄介なものだと思う。

だから、時々でもこのブログへ来て「毒饅頭」を思う存分味わって欲しい……そうすれば書店や図書館で見つけた一冊の本の素晴らしさを、もっともっと深く味わえるかもしれない。

皆さんは誰のどんな小説が好きで、小説のどんな部分こだわりますか。技術的な事なんですが、文章の中に出てくる「メタファ」がとても好きです。メタファには必ず「感性」がセットで付いているので、とても使うのが難しいけれどぴったりと重なれば、より深い所でイメージが同期できると思います。

皆さんはどう思いますか?