ハシディズムが語る東西の接点(2)…善悪、悪しき衝動、妄念について…

遂に聖書(旧約・ヤハヴェの教え)の奥義を知ることがなかったパウロ


 パウロは、「私の内に、すなわち、私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを、私は知っている。」(ローマ書718)と言う。更に彼は言う。「神は全ての人を憐れむために、全ての人を不従順の中に閉じ込めたのである。」と。


 この言葉は端的に、創造神が悪であるということを述べているのであって、これこそまさしくグノーシスの思想に他ならない。後にアウグスティヌスが原罪という言葉を持ち出すことになったのは、ここに起源がある。


 これは何を意味しているか?  言うまでもないことだが、彼・パウロ (及び彼ら)神が教えたトーラーの奥義を何一つ知らなかったことを意味しているのである。

 そのことを理解すれば、キリスト教の初代教父と言われる者達が、どうしてあのようにグノーシス主義者を抹殺・惨殺しのかの理由が明確になって来る。即ち、近親憎悪に他ならない。つまり、彼らは自分の正体を知られることを恐れたのである。この忌まわしいドグマ…それはパウロによってキリストの十字架と無理やり結びつけられて“宣教された”…が、パウロ以降、ほぼ2000年に亘って“キリスト教世界”を支配した

 1600年ぶりのナグハマディ文書の出現とは、まさにこのパウロ神学の正体を暴くために出現した神の摂理に他ならない。


 トーラーの奥義は、敬虔なユダヤ教徒に伝えられ、守られて来た。しかし、18世紀に入ると、その一部が我々に対しても公開されたのである。それを伝えたのは、ロシアのウクライナのチェルノブイリ近郊で生まれた近代ハシディズムの創始者イスラエル・ベン・エリエゼル(1700~1760)である。


tomasocのブログ-イスラエル・ベン・エリエゼル










Yisroel ben Eliezer



 トーラーの奥義を伝授される器でなかったパウロは、必然的なこととして宇宙の最も大きな秘密の一つである悪の起源を知らない。それゆえ彼は「悪しき衝動」の取り扱い方をも知らないのである。

 トーラーの秘儀は、アウグスティヌスを初めとする、これまでのキリスト教の司教や司祭、神学者達が等しく知らなかったことである。その無知の反動が「十字架と復活を信じる者のみが救われる」という狂信的な情念のドグマである。

「これを信じない者は」とパウロは言う。「キリストから切り離され、恩寵から落とされる。」(ガラテア書54)と。黙示録を書いたとされるヨハネについて言えば、彼の「ヨハネの手紙」等の書簡を併せて読む限り、彼もまた「信じない者」に対してパウロと同様の呪いをかけ、人間一般に対して脅迫していると言って良い。


 ここに見られるものは何か?  死ぬまで徹底して神(=)に従順であったナザレのイエスとは全く別のもの、すなわち、神の創造の業が悪であること、それゆえの神に対する不信、神に対する呪いに他ならない。これはイエスの信条と全く相容れないもの、即ちデーモン、サタンである。

 このようなものが何故2000年も地球を覆い尽くして来たのか…幸いにして我が国では、このようなものが浸透することはなかったが…、このことは人類史の最大規模の問題なので、ここで簡単に触れることは出来ない。


 前置きが長くなったが、これらのことをハシディズムがどのように言っているかを見てみよう。以下にバール・シェムとあるのはイスラエル・ベン・エリエゼルの通常の呼称である。

……………………………

 ここにバール・シェムと彼の信奉者たちの生活態度に現われる、新たな要素が始まるのである。重要なのはただに民衆の癒しではなく、むしろ天と地との間の病めるつながりの癒しである悪はうち勝ちがたくなるまえに、阻止されなければならない。しかしこのことが起こりうるのは、戦いによってではなく、ただ新たな取りなしと新たな導きによるのである

(ハシディズム」みすず書房1997P44)


 ひとが偉大であればあるほど、それだけ彼の衝動も大きいという昔の格言は修正される。すなわち魂は、誘惑の大きさから、いかにそれが根元から聖であるか知るのである。想像力は火花の出現と結合する、我々の内なる力である。そしてこの火花の出現は善・悪の混合から生じるのであるから、想像力について、それが善・悪を知る木〔創世記、二・四以下〕だと言われうるのである


 この際、すべての人間に決断が生じ、そしてそれに救いがかかっているのである。それゆえに我々は妄念を、なにか厄介な、忌むべきものとして、われわれから押しのけ、聖なる火花を追いだすべきではない。実際、聖なる火花の出現は、「主は遠くから彼に現われた(エレミヤ、三一・三)と聖書に記されているように、外見上神からもっとも遠くはなれている事物のなかに、神が出現することを意味するのである

☆ 

 我々はこの神の出現を喜んで受けいれ、そしてそれが我々に渇望するところのことをなすべきである。すなわち我々の空想の領域で純粋の情欲を、それを制約する対象から解放し、それを無制約者へと向けるべきである

☆ 

 このことによって我々は殻(クリパ)を破り、そのなかに閉じこめられた火花を救うのである。たしかに、このような仕方で悪と関係する人間は、大きな冒険をおかすのである。そして多くのツァディークたちは、この冒険の克服が聖なる人間に留保されていると警告したのである。

 しかし彼らにたいして、すべての人間が世界の浄化と救いを果すために、この世に存在するのだという異議が申し立てられるであろう。

(M・ブーバー著「ハシディズム」p64)

……………………………

Comment:少し難しい内容なので、何度も読んで考えなければ判らない内容でしょう。しかし、ここには「信じなければ」という呪いや脅しが無いことはお分かりでしょう。


 ハシディズムが教える「罪」と「赦し」の意味・内容は、創造神を悪とするグノーシス主義者パウロのそれとは全く異なります。ブーバーの言葉を聞いてみましょう。

……………………………

「罪とはユダヤ教の教えによれば、神と人間との間の基本的関係の人間による妨害である。人間はこの妨害によって神の被造物とはもはや同一でない存在者になるからである。ゆるしとは、人間が復帰によって再び彼の被造性の状態にはいった後の、神による基本的関係の回復である。」


「人間性の道は、たといどこまで迷い込んだとしても、繰り返し新たに始まるのであるから、毎朝、目をさますたびに神に向かって、『あなたがわたしに下さった魂は清い』と言うとき、その祈祷者は真実を語っているのである

 だれでも罪を犯しはするが、しかしだれでも復帰することができる。『祈りの門は決して閉じられない』(詩篇65へのミドラッシュTehillim)、あるいはまた、イエスが表現しているように、『門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。』

(マルティン・ブーバー「キリスト教との対話」理想社1968p207~208)

……………………………

Comment:それゆえ、ブーバーは言います。「ゆるしは終末論的ではなくて、永遠に現在的である。」と。

 如何でしょうか?  真実の神の教えと、パウロ、アウグスティヌス等の教えとは全く異なったものです。

 私達は今、真実の教えを伝えられています。ヨハネの黙示録は偽りのものです。このようなものを“解読する”ことは何の意味もありません。この書の正体は最後の章、2218節に呪いの言葉が記されていることでも判ります。このような呪いは決して神から来ることはありません。

 私達は今、このような邪悪な呪いから解き放たれる時に来ているのです。これは人類史の大いなる始まりとなって参ります。


つづく。