先月から始まりました新企画!
ここ兵庫県三木市吉川町実楽で
山田錦作りに情熱を燃やす、農家さんの生の声をお届けしたいと
思います。
第2回目は・・・
『実楽の御意見番』 辻田 凱昭(つじた よしあき) 氏のインタビューです。
― 辻田さんは山田錦を栽培されて何年になりますか?
昭和30年頃からなので、60年程になります。
当時は機械なんてありませんので、牛が働いてくれました。大きくなったら肉牛として出荷していましたが、牛を手放すときは涙が出ました。
今と違って機械がないので田植え、稲刈りの時は人手がいるのですが、昭和40年頃になると、都会への就職等により人手が不足してきました。人手不足解消のためにコンバインを購入しましたが、背丈が高く、倒れてしまう山田錦には適さないものでした。山田錦の生産を減らして食用米を作っていた時期もありましたが、3台目のコンバインでようやく山田錦が刈れるようになり、その頃から全量山田錦を作れるようになりました。
― 実楽地区と沢の鶴のお付き合いはいつ頃から始まったのですか?
明治22年からと伝え聞いていますが、それを証明する契約書のような資料は残っておりません。口約束から始まって、今まで120年以上のお付き合いになっているようです。以前、沢の鶴の社長さんに、「実楽」という酒を造ってくださるようお願いし、その代わりにそのような資料を探しておくという約束をしました。社長さんは約束を果たしてくれましたが、いまだにこちらの約束は果たせていません(笑)。
山田錦が誕生したのが昭和11年ですから、その頃は山田錦ではなく、酒造好適米というか、酒に向く米を作っていました。祖母から聞いた話では、字は分かりませんが、「ならぼ」という、大粒で山田錦よりもさらに背丈の高い米を作っていたと聞いています。
― 山田錦の栽培技術を守るためにどんな事をされていますか?
吉川町では、どこの地区も集落と酒屋さんとの付き合いをしており、吉川町全体の取組みはありませんでした。そこで平成12年、農協の合併を機に、山田錦産地の中でもとりわけ品質が高い吉川町産山田錦の品質を守るために、「吉川町村米部会」を立ち上げ、長い間役員を務めました。
また、山田錦に限らず、全ての農作物に通じる事ですが。土作りが大事です。戦時中から終戦直後にかけて、実楽地区で米と麦の二毛作を行っていた事がありましたが、その結果地力が落ち、米の品質も落ちました。(現在の実楽では秋の収穫が終わるとすぐに次の米作りに向けて土作りを始めます。)
― 山田錦を栽培されて、難しいと感じるところ、苦労するところは?
気温、降水量、日照等の気象条件は毎年違いますので、毎年同じ事をしても違う結果となってしまいます。毎年が1年生の気持ちで作っています。
「稲と話をしなければならない」と言われたものですが、本当に話ができたらどんなに楽かと思います(笑)。話をしろというのは、稲の観察、生育の観察をして、稲の欲しがっているものを見極めなさいという事だと思います。
― 山田錦を栽培されていて今までで一番印象に残っているのはどんなことですか?
平成9年は深刻な水不足で、9月の上旬にはダムの水が無くなり、雨を待つしかないという状態でした。土は乾燥により深くヒビ割れ、そのヒビの底に少しだけ水が見えていました。土の表面は真っ白になる程でしたが、とても品質の良い米がとれました。
稲というのは、表面に出ている長さと同じくらい、地中に長い根を伸ばして、地中の養分や水分を吸収しています。つまり、丈夫な根を育てなければならない。やはり土作りが大事だという事ですね。
― 沢の鶴の商品で一番おいしいと思われるのは?
大吟醸瑞兆が好きです。そんなにたくさんの量は飲みませんが、ほぼ毎晩、お酒は飲んでいます。
― 皆さんにお聞きする最後の質問です。「辻田凱昭様にとって山田錦とは?」
子供や孫のように可愛いものです。
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60年もの長い間、山田錦に関わってきた辻田様だからこその言葉だと思います。
次回もどうぞお楽しみに・・・
【編集後記】
6月9日に、山田錦の田植えをしました。
晴れたり曇ったりの忙しいお天気でしたが、
今年も、実楽の農家さんのおかげで、無事に終わりました。