メロメロパーク
November 15, 2005 01:33:29

命日

テーマ:幕末志士論

本日(14日)は、坂本龍馬先生と中岡慎太郎先生の命日でございます。

また、坂本先生の生誕日でもあります。


合唱

合掌。

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July 10, 2005 02:02:39

近藤長次郎

テーマ:幕末志士論

近藤長次郎

【はじめに】

近藤長次郎(1838~1866)

 高知城下水通町二丁目横町(現在の高知市上町二丁目)の商家(餅菓子商・大里屋)伝次、鹿の長子として生まれる。家業が饅頭屋だったところから、饅頭屋長次郎と呼ばれた。
幼少より学問を好み世に云う秀才で、饅頭の行商を手伝いながらも、常に手には本を持ち離さなかったという。その一方で剣の修業にも怠りなかった。

叔父・門田兼五郎の勧めで河田小龍 に師事し、次いで神田村に蟄居中であった岩崎弥太郎 に学び、安政六年五月藩の重役・由比猪内の下僕として従う機会を得、江戸に赴き岩崎弥太郎の師であった安積艮斎の塾に入門するが、相次ぐ両親の死によって一旦帰国する。

、勝海舟の門下生となる。
神戸海軍操練所の設立と共に神戸に移り、勝海舟の下で研鑽を積み坂本龍馬 からも直接指導を受けた。その後神戸海軍操練所の閉鎖に伴い、同志と共に鹿児島を経て長崎に移り、亀山社中 が組織されるとそれに参加し、社中の中心人物として活躍した。
長次郎は慶応元年四月二十五日、大坂から「胡蝶丸」に乗って鹿児島へ向かうとき、義父の大和屋弥七宛に一首の和歌をおくった。
″うき雲の立ちおほふなる浮世なり消えなばこれをかたみともみよ″
「憂き雲が立ち覆うている、今のこの時勢である。いつどうなるか命のほどもわからない。もしわたしが一朝の露と消えたら、この歌をもって形見としてほしい」

長次郎はこの頃から上杉宋次郎を名乗り、龍馬の命を受けて薩長連合の成立に奔走し、慶応元年にはユニオン号の購入にあたり、長州のために尽力した
此の時、長州から多額の成功報酬を受け取り、其れを元手にしてイギリスへの留学を企てたが、出発間際に露見した。同志に小曽根家の裏部屋へ連行されたうえ、社中の盟約違反を咎められ、慶応二年一月十四日切腹して果てた。
龍馬は近藤長次郎の死を悼み「術数あまりありて至誠足らず、上杉氏(近藤長次郎のこと)の身を滅ぼす所以なり」と書いている。




饅頭屋の長次郎君。

彼はとても頭がキレる人間だった為、他の人間に対して、少し上からモノを言うことがあったようです。亀山社中の人間もあまり彼と仲もよくなく、ひとり腹を割りました。

非常に勉強家であり、学問に対しての取り組みは周りの人間を圧倒したといいます。結局それが仇になり、死んでしまうのですが、こんな彼一人でさえ生かしておく事ができなかった時代なんですね。志ひとつで世の中を変えることができた時代でもあるあったわけです。

幕末ってすごいですよ。


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  時勢論けふの読み物

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-社会

東京標的8月、危機意識乏しく…標的条件整いすぎ

-社会

○覚醒剤で逮捕の社長が親しくしていた芸能人

-モバイル

○ジャケットフォン改め「WILLCOM SIM STYLE」


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June 10, 2005 02:42:59

武市瑞山

テーマ:幕末志士論

たけやん

【はじめに】

武市瑞山(1829~1865)

文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代後期の土佐藩士である。土佐勤王党の盟主。通称は半平太。土佐国吹井村(高知県高知市)にて、武市正恒の長男として生まれる。武市家は白札(上級郷士)の家柄で、経済的に恵まれていた。嘉永2年、城下の新町で剣術道場を開く。この道場の門下には岡田以蔵もいた。安政3年(1856年) 江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学ぶ。すぐに塾頭になる剣客ぶりであった。桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。

文久元年(1861年) 一藩勤王を掲げ同志を集めて、土佐勤王党を結成。(坂本龍馬・吉村寅太郎らも最初、名を連ねた。他に中岡慎太郎、なども加盟)翌1862年には藩主山内豊範への進言を退けた土佐藩の参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指示土佐藩を一藩勤王に動かし、上士格の留守居組に出世する。また、京都に出て、藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で朝廷工作に奔走する。京では佐幕派の暗殺に関与し、天誅と称する暗殺行為を指示した(武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛が有名)。

しかし、文久3年8月18日に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、自体は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。土佐藩においても、公武合体派の前藩主山内豊信(容堂)が再び影響力を増し、武市にも藩から帰藩命令が発せられ、帰藩後まもなくして入獄。他の勤王党同志も次々と捕縛される。一年半の過酷な獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。

だが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により武市の罪状は決定し、慶応元年(1865年)閏5月11日、獄中で切腹を命ぜられる。享年36。




龍馬の親戚でもあった瑞山君。

幕末を考える上で、彼もご紹介したい人物ですが、あまり尊敬できません。というのも、かなりの暗殺マニアで、自分の信念を貫く上で、自分の害になりそうな人物を暗殺。前述した岡田以蔵を中心に殺人マシーンを使って随分殺ってます。

しかし、土佐勤王党を結成し、土佐郷士をまとめ上げたリーダーシップはよくやったね~と労いたい。もしかして、土佐勤王党が発足しなければ、土佐藩の歴史に名を残した人物たちは埋もれていたかもしれません。土佐郷士の方々が勤王の志士となったのは、この土佐勤王党がキッカケでもあるからです(もしかしたら維新ももう少し遅れていたかもしれない)。

しかし、幕末の日本は今のイラクなんかと同じようにテロ国家だった事を考えると、それも時勢というやつなのでしょう。


瑞山は切腹を命じられると、三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わる(如何に潔く死ぬか、どうのように死ぬかというのは、当時の武士たちの間ではとても肝要でした)。


暗殺プレーにはまりすぎてしまったけども、個人的に瑞山君が生きていたら、明治時代にしっかり名を残せた政治家になっていたと思います。

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May 30, 2005 01:00:43

陸奥宗光

テーマ:幕末志士論

陸奥くん

【はじめに】

陸奥宗光(1844~1897)

弘化元年紀伊和歌山城下に生まれる。
父伊達宗広は八百石取りの重役で、紀州藩の財政立て直しに貢献した勘定奉行であったが、藩内政争に巻き込まれ失脚し家族は四散。宗光は恵まれない幼少時代をおくっている。十四歳春、出家し、江戸に出て儒者安井息軒の門人となる。十六の頃から吉原通いをはじめ息軒に破門され、 将軍侍医の花岡真節邸にころがりこんだといわれる。義理の兄である伊達宗興が京都粟田口青蓮院にはいり、門主の中川宮に
仕えていたのをきっかけに、宗光も勤皇の志士として動き始める。
坂本龍馬の推挙を得て、勝海舟の海軍操練所に入るがやがて操練所が閉じられ、龍馬が海援隊を組織するとこれに加わり、副長格で活躍した。坂本龍馬が慶応三年十一月十五日、京都近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、それまでほとんど剣技に縁のなかった宗光も、慶応三年十二月七日、中井庄五郎、土居通夫らと天満屋事件をおこす。宗光は、真っ先に刀をとり海援隊隊士を含む十六名で、龍馬暗殺の
噂が高かった見回り組を襲撃したが、失敗に終わる。

維新後、二十五歳で大阪府権判事に、ついで兵庫県知事、和歌山藩大参事、神奈川県知事、元老院幹事を歴任。明治十年西南戦争のとき、西郷隆盛に呼応して立ち上がろうとして政府転覆の嫌疑を受けて入獄。十五年、特赦出獄。再び政府に出仕し、駐米大使、山県有朋内閣の農商務大臣、元老院議官、伊藤博文内閣の外務大臣となり、イギリスとの治外法権撤廃の条約改正、清国との講和条約調印、三国干渉など外交問題を処理し、カミソリ大臣とうたわれる。
明治三十年八月、東京西ヶ原に没す。享年五十三歳。

彼は龍馬との縁で海援隊に入隊します。入隊直後は”生意気だ”ということで、他の海援隊士とはあまりうちとけられなかったといいます。ここでいう”生意気”は「うっせんだよ~」と中学2年生の男子が母親や担任の先生にいうようなことではなく、海援隊の進むべき方向や日本の将来について陸奥自身の考えが他の隊士より優れていたということです(出る杭は打たれるというやつです)。若かれし頃の宗光は、先輩をものともしない思想の持ち主で口がたち、他の隊士から煙たがられていた・・・ しかし、龍馬はそんな陸奥でさえもかわいがり(ホモということではありません!)、陸奥に絶対の信頼をおいていました。

龍馬の暗殺後、剣術の経験がほとんどない彼が真っ先に仇討ちへ向かったといいます。

そんな熱い男、陸奥宗光、海援隊士の中では最も出世した人物です。


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May 22, 2005 01:54:08

吉村寅太郎

テーマ:幕末志士論

寅太郎くん

【はじめに】

吉村寅太郎(1837~1863)

土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。
1849年、父の跡を継ぎ、庄屋となる。
1861年、土佐勤王党に加盟し、その翌年、武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞 と会見する。その後、久坂に感化されて脱藩し、志士として活動をはじめる。寺田屋事件に関係して薩摩藩に捕まり、土佐に送られて入獄する。
そして、許されると再び脱藩する。
1863年、大和行幸が決まると、明治天皇の叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜け大和に入り、天誅組を結成する。五条代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置いた。しかし、8月18日の政変により、尊攘派が中央政界から追い出され、後ろ盾を無くす。その後、十津川に逃げてそこを根拠地とし、高取城を攻めるが敗れる。この戦闘で重傷を負って逃亡し、吉野郡高見村鷲家口に隠れるが、そこも襲撃され、逃げ場を無くしその場で自刃する。
享年27歳。

土佐勤王党の中で、真っ先に脱藩しております。もちろん龍馬より早く脱藩し、倒幕に従事して命を落としました。不運な事に、前述してある、8/18の政変に一変して賊軍として終われる身に。国の為に命を掛けて戦った青年は何を思ったのか。吉村という人は本来戦いを好まず、心優しい人柄だったといいます。


旗頭の中山忠光が逃亡し、何の後ろ盾のなくなってしまった天誅組にとって幕軍との戦いはあまりにも無謀でした。しかし、吉村をはじめ、多くの志士たちは自らの命と引き換えに倒幕の礎になろうと考えていたのではないでしょうか。

■吉村辞世の区

「秋なれば こき紅葉をも 散らすなり
 わが討つたちの 血けぶりを見よ」

・・・毎年、吉野山に秋が来て

・・・赤いもみじ葉が舞い乱れたら、この吉村がまだ幕軍と戦っているのだ・・・

・・・と思い出してくれ・・・

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May 18, 2005 00:56:30

中岡慎太郎

テーマ:幕末志士論
中岡

【はじめに】

中岡慎太郎(1838~1867)

 龍馬と並ぶ幕末の英雄、中岡慎太郎は、1838年4月13日、安芸郡北川村の大庄屋中岡小傳次の長男に生まれた。幼い頃から優秀な慎太郎は、14歳の時には塾長代理を務めるまでに。

 慎太郎は、二十歳で結婚し、北川郷の大庄屋見習いとなる。その翌年、土佐に大地震があった。さらに、コロリと呼ばれた疫病が大流行した。北川郷の村人の生活は苦しくなり、慎太郎は、自家の山林や田畑を担保にして近村の富豪から米麦を借り入れて人々にほどこしたが足りず、藩にせまって、八百両を借り入れた。またある飢饉の時、慎太郎は四方に手をつくし、薩摩芋五百貫を手に入れて救済したがそれだけでは足りず、意を決した慎太郎は早朝に城下をめざし、国家老・桐間蔵人にかけあって、官倉を開いて村民を救うことを承諾させた。慎太郎の死後も村民はこのことを忘れることができず、明治四十四年、彰徳碑を建てている。
 薩長同盟の成立は理論武装した慎太郎の弁舌による功績が大きい。龍馬は歴史の表舞台に出たが、舞台の裏方として、重要な仕事をしたのが慎太郎だった。龍馬と慎太郎は、言うなれば、幕末を駆け抜けた、駿馬の前足と、後ろ足だった。この二大英傑なくして薩長同盟は成立しえなかった。
 龍馬と慎太郎はその目指すところは同じだったが、目的を達成する方法論がちがっていた。総論においては同じでも、各論においてちがっていた。理想主義者である龍馬はあくまでも無血クーデターを主張し、慎太郎は『戦』なくしては、倒幕はありえないと考えていた。それを実践するめために、慎太郎は『陸援隊』を組織した。慶応二年、五月十一日慎太郎は、板垣退助を西郷隆盛に紹介し、密かに薩土倒幕の密約を結び、山内容堂の決意をうながした。
 志半ばにして、維新を見ることなく、1867年11月15日京都近江屋で慎太郎は盟友龍馬とともに暗殺された。慎太郎、三十歳、龍馬三十三歳だった。

 少々前置きが長くなってしまいましたが、私は龍馬と同じ位お気に入りな志士です。

ちなみに、本ブログは慎太郎の書いた「時勢論」をパクらせてもらいました。

慎太郎は、前置きのエピソードにもあるように、他人に対して非常に献身的な人物だったという

話をよく聞きます。女房も子供もいましたが、すべてを捨てて国事に奔走していました。

そして、刺客たちに襲われ、瀕死の重傷を負っても日本の行く末を心配していたという、

志士の中の志士。己の私欲を捨て、信念に向かって時代を駆け抜けた武士です。

龍馬をはじめ、こうした先人の方は日本の宝です。

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April 25, 2005 04:26:06

坂本龍馬

テーマ:幕末志士論

 

竜馬

【はじめに】

坂本龍馬(1835~1867)

 幕末、幕府を倒すための「海軍」と「商社」の性格を併せ持つ浪人結社「海援隊」を組織。西南雄藩から、幕府に到るまでの多彩な人脈を生かして薩長同盟締結、大政奉還に大きな役割を果たした。

 また議会制度や兵制改革、経済の安定策など日本の近代化のモデル案「船中八策」を提唱。新政府の綱領に生かされた。慶応3年、11月15日、京都の近江屋で暗殺される。享年33歳。「日本で初めて株式会社を作った男」「日本で初めて新婚旅行に行った男」としても知られる。

【龍馬参考WEB】

http://ryoma.ktplan.ne.jp/index0.html

 

近代日本史上でこの人ほどアクティブボーイだった人はいないでしょう。

名前だけが先行して、実際に龍馬が何をした人なのか、いまいち知らない人もおおいのではないでしょうか。

因みに、「カミソリ外相」と呼ばれ、外国の外相達から恐れられた陸奥宗光は、晩年龍馬のこのように回想しています。

 

「坂本は、近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その見
  識議論の高き、その他人を誘説・感得する能に富める、同時代の人、よく
  彼の右に出るものあらざりき。

  坂本は、一方においては、薩・長・土の間にわだかまりたる恩怨を融解せ
  しめて、幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府
  の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯
  を率いて朝廷に朝し、事実において太政大臣たらしめ、名において諸侯を
  平等の臣属たらしめ、もって無血の革命を遂げんと企てぬ。

  彼 もとより土佐藩の一浪士のみ

 

 数々の改革を打ち立ててきた龍馬は、浪士なんです。

 しかも自分の行ってきた事がようやく身を結ぼうとしていた(大政奉還)直前に暗殺されてしまうというドラマティックな最後。

 彼が相当の女好きだとか、梅毒で若ハゲだったとか噂は飛び交えど、龍馬という人は日本の財産であったことに間違いはありません。

 

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