2010-12-26 14:52:45

「意識」、スーザン・ブラックモア

テーマ:意識

昨日の25日までに、

年賀状を出して下さいという事でしたので

昨日、がんばって書きましたが、

全部書けませんでした。


けなげに、

筆を使って書こうと頑張ったのです。


日ごろから、習字なんてやっていないから、

うまく書けるはずは、ないんだけれど、

たまにはいいかなと、書きました。


習字は好きですが、

字は、下手でまったく情けないんです。


加えて、練習が不足しておりまして

「漢字」と「平かな」の書き上がり違います。


漢字はまだ許せるのですが、

“明けましておめでとう御座います”の“平かな”がまったくダメです。


「かな」を書くのが、かくも難しいものか!

ほとんど、ミミズがはったようで

恥ずかしいの一言です。

とても出せるものではありません。

皆さんもこんな、経験ありません?


仕方なく“謹賀新年”でごまかしました、


来年こそは、「平かな」が入った賀状が書けるよう

頑張ります。


でも今晩には、全部書き上げます。





そんなので、昨日は、賀状書きで時間が足らず、本が読めませんでした。

で今朝、午前中によんだ本は。


「意識」スーザン・ブラックモア 岩波書店 2010年

より。


スーザン・ブラックモアは1951年生まれの、サイエンスライターで「意識を語る」NTT出版などの本を書かれています。


この本が最近出版されたのと、

彼には色々な脳科学者との接触があり、意識の最前線及び、彼自身の論説もあろうと思い、読んでみました。



私の個人的な了解ですが、新しい知見は得られませんでした。

でも、意識の不思議さ、多くの意識ハンターの見解、錯覚から多重人格論、夢・催眠術、著者の主張等が書かれてあり、入門書としては良書であろうと思います。


この著者の主張は、私にとって珍しいもので、「錯覚主義」という物です。

私が感じている意識、クオリアも含め全てが錯覚であるという主張でしょうか。


それでは、

つまり、私たちは欺かれているのだ。

意識と呼ばれ、説明を要する何かが明らかに存在する。

しかし、私たちが経験の統合された流れだと考えているものは、本当にそのようなものだろうか。私たちは、自分の意識のなかにいま何があるかを知っていると言う考えを放棄し、自分自身の心について深刻な勘違いをしているかもしれないということを認めなければならないのではなかろうか。

私はそう思うのである。

つまり“経験の統合された流れなどない”と言う主張です。意識の流れがないという事でしょう。


もう少し詳しくは

たとえ自我が見つからず、深い哲学的困難に陥るとしても、

なお自我の感覚に固執して持続的な自我や魂の存在を認め続けるということも可能である。

また、自我をある種の脳内プロセスと同一視して、そもそもいったいなぜこの脳内プロセスが意識を持つのかという問題を棚上げして考えないようにすることも可能である。

あるいは、私たちの自我の感覚に対応するような持続的な存在をいっさい認めないことも可能である。」

と可能性を列挙した中で、著者は


私は、知的な観点から言えば、この最後の道をとるべきだと考える。

と「錯覚主義」を取るのを知的観点からと、根拠らしきものを言われます。

自我の感覚に対応するような持続的な存在をいっさい認めないのです。認めない意味は錯覚だからであると言っているのです。


しかしこの主義の問題として挙げられるのは

問題は、個人の人生においてこの考えを受け入れるのが非常に難しいという事だ。

この考えを受け入れるならば、すべての経験について根本的に異なる見方をとらなくてはならない。

つまり、この経験を持っている誰かなどはおらず、私が存在するような気がするときはいつも、その「私」は一時的な虚構にすぎず、一瞬前、あるいは先週、もしくは去年、存在したように思われたのと同じ「私」ではないということを認めなくてはならないのだ。これは、至難の業だが、訓練すれば簡単になっていくだろうと思う。


「私と言う自覚」が一瞬、一瞬異なっているのが本当で、連続した自我は錯覚だと言うのです。

さらに訓練すれば簡単だとのことですが、訓練したからといって自覚が変わるだけですよね。



最後に

真実はこうである。・・・

意識は壮大な錯覚だということになる。「私はいま意識があるか」、「私は今何を意識しているか」といった問いを問うことで意識が生じてくる。問うているその瞬間に、答えがでっちあげられる。つまり一つの今、一つの意識の流れ、そしてそれを観察する一つの自我がすべて一緒にあらわれ、たちどころに消えてしまうのである。


いう事は、自分が自問したときにしか意識は表れてこず、そのほかは意識がない、そしてその現われてくる自我も連続したものではない、この考方は訓練すれば簡単だ、という主張です。

でも、自問したときに現れる意識は錯覚であると、片付けていますが、そんなんでいいのでしょうか。

そんなものではないと思います。


以上が主な主旨ですが、納得の出来ない点が、一点あるのです。

それは

この考え方によれば、人間と同じように意識を持つことが出来るのは、人間と同じくらい錯覚を持つことが出来る生き物のみである。

という点ですが、他の動物には意識が存在しない、人間至上主義が見えてきます。


このことが意味するのは、人間だけが意識を持つという意味ではなく、人間と同じ意識を持てるのが人間しかいないという当たり前のことを言っているのかも知れません。そうであればいいのですが、

紛らわしいです。

人間だけが特別の意識をもっていることを主張することに、何の意義もないと考えられます。


「錯覚主義」という主張に遭遇したのは初めてです。しかし。脳の物理的活動と、この錯覚がどの様な関係になっているのかの説明は、見つけられませんでした。

私の読解力不足でしょうか。


「錯覚主義」を標榜することにより、何も変わらないと思われます。

私は意識その物が実在するか、または実在しないか、錯覚であるか、別次元の霊魂か、などは、どうでもよくて、

ただ、物理的に脳の活動から意識が創生される、メカニズムがわかればいいというだけです。

だから意識二元論でも一元論でも、随伴現象でもなんでもいいのです。

主義主張は、メカニズムをメインに展開していただきたく希望するのです。

つまり、意識現象の基本はクオリア、気付きですから、それ以外の高度な心理現象を取り上げるのは後回しでもいいと思われます。特に意識という観点からの論に対しては。

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