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※禁無断転載


 私がもっとも敬愛してやまない、元零戦搭乗員・角田和男中尉が、2月14日、2135、お亡くなりになりました。享年94。その直後、ご子息からお電話で知らせてくださったのですが、あまりに辛くて悲しくて、言葉も出てきません。

  


 通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも無事に執り行われました。94歳ともなると、通常見送ってくれる同世代の友人がほとんどおらず、寂しいお別れになりがちですが、角田さんの御人徳ゆえか、斎場いっぱいに人があふれる盛式でした。ご家族、ご親族も皆様、じつに立派な方たちでした。

 角田さんはご生前、
 「部下だったのも次々亡くなって、私の時に見送ってくれるのは神立さんぐらいかなあ」
 とおっしゃっていたそうですが、とんでもない。交通不便な場所であるにもかかわらず、遠方から来られた人も多く、角田さんを慕う人はかくもいらっしゃるのだな、と実感しました。


 私は、15日、取り急ぎNPO法人「零戦の会」事務局長と弔問に行き、通夜、告別式ともに出席して、先ほど帰りました。

 通夜には、「零戦の会」役員など10数名が列席、告別式には「零戦の会」役員5名、第二〇五海軍航空隊・神風特攻大義隊の元搭乗員四名、同隊副長兼飛行長・鈴木實中佐御令孫、角田さんが出演されたNHKの番組スタッフなど大勢の方が、角田さんとの別れを惜しみました。


 告別式で私は、弔辞を読むという大役を仰せつかりました。

 私は、角田さん方にのべ80回は伺い、靖国神社はじめ慰霊祭などでも50~60回はご一緒しています。しかも、夏には角田さんの畑で採れたスイカ、秋には田んぼで収穫したお米をいただくなど、受けた御恩は枚挙にいとまがありません。もちろん、形あるものだけでなく、角田さんからは人生について多くのことを学ばせていただきました。

 これまでの大恩を思い、その万分の一でもご恩返しができればと思って、心を込めて「弔辞」ではなく「謝辞」として読ませていただきました。


  

  

  

 角田さんはほんとうに、誰よりも厳しい戦況の中を誰よりも勇敢に戦い、しかもそのお人柄で、上下の信頼の厚い人でした。

 ラバウル、ガダルカナル方面の戦いでは、飛行兵曹長の分隊士でありながら、実質的な空中指揮官として五八二空戦闘機隊を率いて獅子奮迅の働きをし、硫黄島でも戦い、大戦末期のフィリピンでは、特攻隊員に指名され、しかし、貴重なベテランだったがゆえに体当たり攻撃は認められず、味方特攻機を誘導し、突入を確認する辛く非情な任務に就かれました。特攻出撃20回。その間、若い隊員の操縦する特攻機が敵空母に突入するところを二度、確認しています。


 帝国海軍きってのベテラン搭乗員を戦後の航空界が放っておくはずもなく戦後は、民間航空会社や航空自衛隊から度重なるスカウトを受けたものの、
 「二度と戦争はやるまい、飛行機には乗るまい。万が一、一朝有事の際には志願して、特攻隊でまた往こう」という気持ちを60歳まで持ち続けながらスカウトは断り続け、苦行とも言える茨城県の開拓農家として、冬は東京に出稼ぎにも行きながら、そこで得たお金をほとんど戦友の慰霊行脚に費やし、同じ部隊で戦死した約170名のうち、一人をのぞいて全員の遺族を巡拝されました。


 その生き方たるや凄まじく、しかしご本人は澄んだ目が印象的な、気配りの人でした。自分の部下や上官が入院すれば、不自由な体を押してまで見舞いに駆けつけ、駆けつけるだけでなく、お世話までしてこられるのが常でした。


 角田さんの零戦搭乗員としての戦果は単独撃墜13機、協同撃墜約100機とのことですが、角田さんが、坂井三郎さんや岩本徹三さんのような御性格の方、あるいはそのような編集者が角田さんの手記『修羅の翼』を手がけたなら、「撃墜120余」と喧伝されているかも知れません。


 18年ものお付き合いの間にはいろんなことがありました。思い出は尽きないけれど、まずは角田さんはもうこの世の人ではないという厳然たる事実を、自分の中に落とし込んでいかなければなりません。

 角田さんは、菩薩様のような人でした。角田さんほどの日本人は、今後生まれてこないのではないかと思います。


 ただひたすらに、ご冥福をお祈り申し上げます。

 合掌――。


 (弔辞は後日掲載します)


  
 (喪主の角田さんご子息を中心に、二〇五空大義隊隊員・荒井上飛曹、岩倉上飛曹、井上一飛曹、長田一飛曹らとともに)








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