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 訃報から告別式までの間があいてしまうのは諸々の事情があるのだと思うが、日曜日にようやく、小町定さんの通夜が執り行われる。

 当日はNPO法人「零戦の会」の作業日で、開始時刻を早めて、手空き総員で通夜に向かう。ただ、残念ながらこの天候不順で、おもだった零戦搭乗員のご列席は絶望的である。



 ところで、18日付産経新聞の訃報欄に小町さんの訃報が載ったが、これは「零戦の会」T事務局長の尽力によるものだ。

 はじめ、朝日新聞に電話をして故人の経歴を説明したら、担当者はいかにも関心なさそうに、
 「死亡記事の掲載は有料になります」
 と、要するに社会面下部の広告として出すなら、という。
 朝日に金を払ってまで載せてもらう必要はない。事務局長は次に産経新聞に電話をかけた。
 今度は、朝日とは正反対の丁重な扱いで、さっそく掲載が決まったのだと。

 はからずも、両紙の姿勢が如実に出たわけで、これほどストレートに差を見せられるとかえってスッキリする。


 真珠湾作戦から南太平洋海戦まで機動部隊で転戦し、しかも終戦まで戦い続けた零戦搭乗員というのはもはやほとんどいらっしゃらないわけで、私などの感覚で言えば「人間国宝」に値する人だと思うが、この感覚は朝日新聞の価値観とはどうやら相容れないようだ。
 (でも、これが戦時中の朝日新聞なら、「嗚呼、神鷲南冥に散る 小町飛曹長敵戦闘機を道連に」などと大見出しを立てて、必ず掲載されたことだろう。戦中戦後の掌返しは見事ですらある)



 日本海軍戦闘機隊にとって最後の空戦になったのは、昭和20年8月18日の邀撃戦である。
 8月15日をもってピタリと戦争が終わったわけではないのは、こんにちあまりにも知られていないようで、映画やドラマの脚本家と話すと、100パーセント近く、そこできれいに区切りをつけたがる。そうじゃないんですよ、ということを伝えるのもなかなか骨が折れる。


 ということで、以下、小町飛曹長と海軍戦闘機隊の最後の空戦。
 私はこの空戦に参加した搭乗員のうち、岩下大尉、国分大尉、多胡大尉、坂井少尉(のち中尉)、小町飛曹長、大原上飛曹(のち飛曹長)の6人にこのときのことを聞いている。



 <大本営が陸海軍に、自衛のための戦闘をのぞく戦闘行動を停止する命令を出したのは八月十六日午後のことである。八月十九日、海軍軍令部は、支那方面艦隊をのぞく全部隊にいっさいの戦闘行動を停止することを命じるが、その期限は八月二十二日零時であった。

 「自衛のための戦闘は可」とされていた八月十七日、日本本土を偵察飛行に飛来した米陸軍の四発新型爆撃機コンソリデーテッドB‐32ドミネーター四機を三〇二空の零戦十二機が邀撃し、翌十八日には同じくB‐32二機を横空の零戦、紫電改、雷電計十数機が邀撃した。横空では、終戦が告げられてもなお、機銃弾全弾装備の戦闘機が列線に並べられ、搭乗員たちはやる気まんまんで指揮所に待機していた。

 「敵大型機、千葉上空を南下中」
 との情報に、搭乗員たちは色めきだった。
 「それ、やっつけろ!」

 飛行隊長・指宿正信少佐が、「よし、上がれ!」と指令したが、そのときにはすでに、国分道明大尉ら数名が列線に向け走っているところであった。塚本祐造少佐、岩下邦雄大尉、二人の分隊長もこれに続く。皆、心に迷いはなく、燃える敵愾心だけがあった。

 小町定飛曹長は紫電改に、坂井三郎少尉、大原亮治上飛曹、平林真一上飛曹は零戦五二型に、多胡光男大尉は零戦三二型に搭乗し、それぞれ敵に命中弾を与えたのを確認している。B‐32はいずれも墜落は免れたものの、機銃の射手が一人、機上戦死した。


 この件について米軍からの咎めはなく、これが日本海軍戦闘機隊による最後の空戦になった。>





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